吉田秋生「スクールガール・プリンセス」

吉田秋生の「スクールガール・プリンセス」を読む。思春期の少女がもつ承認願望をさらりと描いた秀作。

思春期の少女は本作品の主人公。といっても、読者にそうとは分からない人物に設定されている。

見かけの主人公は、大学卒業後に結婚し、女の子を出産、真面目な夫になんとなく飽き始める専業主婦の角川乃々子。大学卒業後すぐ結婚したので波乱万丈な恋愛関係など全く経験していないし、社会の軋轢に揉まれたこともない。つまり、社会経験なし。夫が大学時代の友人だからか、大学時代の延長に結婚があり、もう何年も同じ日常が繰り返されているようで、そこにけだるさを感じている。

そこに登場するのが夫が勤務する学校の女子生徒らしき人物。庭から乃々子の家の様子を伺っていて、乃々子はなんとなく気にかかる。こんなとき、女の勘はあたるのか、その女子生徒と夫が商店街を楽しそうに歩いている様子を目撃する。女の勘は鋭さをまし、夫を好きな女子生徒がいる、それも可愛いと来ている。もしや二人は恋愛中なのでは、と心配でいてもたってもいられなくなる。夫に問い詰めても、道を聞かれたから案内してあげていただけさ、と取り合ってくれない。乃々子の不安は最高潮に達し、はては、どうしてこんな男と結婚したのか、と後悔するところまでいく。

そんななか、彼女は大学時代を回想し、そもそもどうして夫を好きになったかを思い出す。そういえば、男の同級生はトルコ(←死語)にいったとかなんとかで盛り上がっていたなあ。でも、私はとっても嫌な感じがした、どうしてかわからないけど。と思っていると、夫になる男子学生が、そんな話よせよ、女子もいるじゃないか、と勇気を振り絞って、同級生をたしなめる。ちぇ、話が分からないヤツと思われる覚悟を賭して。そうそう、あれが心にしみたんだった、あれが彼の良さだったんだ、乃々子は夫への愛を再確認する。

始めに愛ありき。そう思うと夫の存在がありがたくなってくる。そばにいてくれてありがとう、感謝もでてくる。

乃々子にこのような変化が起きたころ、例の可愛い女子生徒がまたやってきた。引っ越すそうだ。その挨拶だろう、彼女はこう言った。「私、先生が好きでした。毎朝、ここを通るたびに遠くから見ていました。おくさんがいることも赤ちゃんがいることもみんな知ってました。このこと先生にはないしょにしといてもらえませんか?わたしお2人がとても好きでした」そう言って、彼女はどこかに去っていく。乃々子はこういう女の子っていいなあ、と好感をもつ。
さあ、ここまで書けば、本当の主人公が誰かは明白だろう。そう、娘が成長して、タイムスリップし、過去に戻ってきたのだ。どうして? 女子生徒の姿をした娘は思春期真っ盛りの時を過ごしている。幼いころから見聞き知った価値観は揺らぎ、また新たに入ってくる価値観も揺らぐように迫ってくる。そういうなかで自分を保っていけるのか。自分は何か大きなものにさらわれていかないだろうか。どうすればいいのか。そう悩む時だ。

それで、娘はタイムスリップした。自分がどんな自分であったかを確認するために、両親を通して。そして、始めに愛があったことを知った。そう、私は愛の中で育ったのだ。その事実が、彼女に生きていくための保障のような自己肯定感を与える。これで、私はやっていける。彼女はそう思って、現在に帰っていったのだろう。

幼い頃のことは、私たちにとって経験したことだけれども、記憶に残らないものだ。それでもその経験は私たちの根深いところで息づいている。思春期の一番悩み多きときに、私たちを承認してくれたり、自己肯定感をくれたり、あるいはそれとはかけ離れて、絶望感を与えることだってありうる。私たちはどう生きていくのか、それがどういう経験を子供にさせるのか、そこを少女文化を通して問うのが「スクールガール・プリンセス」である。

家事(育児を含む)について考える

2、3年程前に、専業主婦のイメージの貧困さについて嘆いたことがあった。例えば。働く人からは、楽な生活を送っている人たちだとか、年金泥棒とか言われているし、男性が牛耳っている政財界は、専業主婦を雇用弁に使いたいばかりに、彼女たちを価値ある仕事をしていると褒め殺しして、彼女たちを専業主婦といういつでも使える潜在的労働者の立場においていた。使い勝手のいい労働者だ。また、夫からは、「誰のお陰でご飯が食べられると思っているんだ!」といまだ言われている専業主婦がいるかもしれない。

あるいはこう考える人もいるだろう。専業主婦の家事は報われて楽しい時があるかもしれないけれども、毎日同じことをやらなければいけないということは、徒労感を生むかもしれない。それも家事は基本的に一人でやることが多いので(誰が自宅の汚い所を他人に見せたいだろうか?)、孤独に陥ることだってあるかもしれない。そう、アメリカのかのベティ・フリーダンが発見した、専業主婦特有の生きづらさを強調するのだ。50年以上も前の話だったはずなのに。そういう人たちは、時間の経過に関係なく、外に出なさい、と専業主婦の耳元でささやいているのだろう。

いや、もっと急進的な人もいる。例えば、竹信三恵子。2013年に出版された彼女の『家事労働ハラスメント』は、フェミニストの立場から書かれた家事労働論だ。彼女によると、女性は家事労働に従事するがために、労働市場では、融通がきかない労働者とみられ、労働力を買いたたかれるという。「家事労働を貶めて、労働時間などの設計から削除し、家事労働に携わる働き手を忌避し、買いたたく」(ix)。そして、みんなそのことを知っているのに、知らないふりをして、状況を変えない。本書は、こういった「家事労働に対する嫌がらせ」を通じた女性の労働市場からの疎外に対して怒りをぶつけたものである。もちろん、解決策も論じてあり、コンビンシングだ。

家事を労働市場と結びつけず、家事だけを取り出して、その素晴らしさを説く人もいる。料理本を書いている人や、収納術の達人たちは、家事を楽しくすることで生活が輝いてくる、というようなことを言う。専業主婦(と専業主婦予備軍)を購読者と想定して荒稼ぎをする輩たちの物言いだ。

こういうものを読み知って、なんてクリシェな表現だろうと、専業主婦って、彼女たちがやっている家事って、そんなものなの?と私は思い悩んだ。どの表現も専業主婦以外から生まれたものだ。肝心の専業主婦はサバルタンで、自分たちのこととか家事とは何かとかについて語ろうとしないし、語ったとしてもクリシェな表現に引っ張られて無難な表現に落ち着いている。当事者の声が聞こえてこない。ということで、専業主婦のイメージは貧困だと思った次第である。イメージが貧困だと、専業主婦はその貧困なイメージで視られて、生きづらいだろうと思うのである。

そこに黒船がやってきた。もう話題になっていないかもしれないけど、『ハウスワイフ2.0』。今、アメリカの中流階級の女性たちが労働市場から撤退して、家事に回帰しているというのだ。といっても、彼女たちが回帰している家事は50年前の家事とは異なる。確かに、手作りの食事、手作りの洋服、手作りの洗剤、ホームスクーリング等は昔もやられていたことだろう。だが、理念が違う。昔は家族のため。今は、グローバル化のもと、材料も生産者も流通もなにも分からなくなり、信頼できるのは、自分で作ったものだけ、という、消費者の立場からの手作り家事への回帰なのだ。そう、グローバル化に反対する消費者運動の一環としての家事への回帰である。

ハウスワイフ2.0は、私たちに問う。グローバル化で起きていることに対して、あなたはどのような立場を取るのかと。ハウスワイフ2.0たちは、職を辞めたり、あるいは始めから職に就かなかったり、最悪の場合は失職をしたのかもしれない。しかし、家事に専念し始めた理由がどうであれ、彼女たちが、家事という武器を使って、グローバル化に抵抗している現象は否定出来ない。こう言うと、彼女たちは、夫が生活費を稼いでくれるからそのような抵抗する時間が持てるのだ。贅沢な抵抗だ、と言う人もいるかもしれない。が、そう批判する人は、実際、グローバル化に対して何か抵抗実践をやっているのか?本を書いたり、ブログを書いたり、ツィートしているだけではないか。

ハウスワイフ2.0たちは、中流階級出身だと書いた。本書を読めば分かるように、教養のある女性たちが多い。彼女たちは、自分が専業主婦というどんなにか経済的に危うい立場にいるのかどこかで分かっているはずだ。そして、そういう自分の状況を知ってなお、その危険な状況に飛び込んでいっている。彼女たちは、先の見えない生活設計と引き替えに政治闘争を引き受けた、と私は考える。家事を通して幸せを追求しているように見える彼女たちの姿の背後には、多くの問題を引き起こしているグローバル化への抵抗への意志が、当の本人たちは意識していないかもしれないけれども、読み取れる。

ハウスワイフ2.0現象は、専業主婦が起こした一大ムーブメントである。が、そのムーブメントがどこに行き着くか、誰も予想出来ない。本人にも分からない。ただ、彼女たちは「政治的無意識」(F.ジェイムソン)に突き動かされて、家事に励む。私は、危うい生活設計のもとで手作り家事をあえて大切にするという彼女たちの勇気を称えたい。そして思うのは、専業主婦や家事はかように柔軟なものであり、その存在や使い方を政財界や夫に独占されてはたまらない、ということだ。

シスターフッドが一部のサブカルに存在することについて

漫画家瀧波ユカリサブカル系エッセイスト犬山紙子による『女は笑顔で殴りあうーマウンティング女子の実態』(2014)を読了。一読したところ、女子のカースト実態を、マウンティングという動物の生態から借用した言葉で説明する本と思える。確かに、そう読めないこともないが、実はそれだけではないのではないのか、と思わせる本。どういうことかというと、一部の女性(私もその一人)が、どんなに古いと言われようとも、そんなものないと言われようとも、果てはダサイと思われても、決して手放そうとしないシスターフッド(女性間の連帯)というものを称揚する本ではないかと思えるということだ。つまり、著者たちは、表面では女性を茶化しながらも、実のところ、女性が心底好きな人たちであり、女性同士のつながりがもっともっと紡げたらいい、と裏声で語っているような気がするのである。そういう人が書いた本は心理的に安心して読める。彼女たちは決して私たちを裏切らないってね。そういうわけで、一読をお勧めする。

では、どんな本なのかを説明しよう。タイトルにある「マウンティング」は、帯に解説があるとおり、関係性のなかで序列をつけようとする行為である。帯を読んでみよう。

マウンティング(mounting)
サルがほかのサルの尻に乗り、交尾の姿勢をとること。霊長類に見られ、雌雄に関係なく行われる。動物社会における順序確認の行為で、一方は優位を誇示し他方は無抵抗を示して、攻撃を抑止したり社会的関係を調停したりする。馬乗り行為。(『大辞林』)

で、女性もこのマウンティングをすることがあるということである。一人の女性がもう一人の女性に対して、ある状況において、「ああ、この人の上に立ちたい」とか「本当は、私の方がこの人より上なのよね」と示したいとき、あからさまにそういう行動や態度をとるのは女子らしくないので、婉曲に、上に立つことが出来る言葉を吐くのである。このマウンティング行為を始めると、互いにマウンティングを競い始め、そのうち会話は肝心なことからズレてとてつもなく歪になり、その不毛さを前に両者とも暗い気分に陥る、という非生産的なものを生んでしまう。

なぜに、非生産的であるにもかかわらず、女子はマウンティングをしてしまうのか。著者たちの意見は一致しており、それは相手の女性に対してコンプレックスをもっていたり、妬みや嫉みを抱いていたりなど、自分が劣位に置かれることを受け入れることが出来ないからだという。それで、マウンティングして優位に立とうという空しい行為に走るというわけである。

やはり、そういう感情をもつとは、女性とは劣性であることよ、と思ってはいけない。劣性であるのではなく、女性は自分と他の女性を比較するという行動をとる習性を学習してしまったのである。例えば、私が思うに、これまで、女性が社会で生き残っていくには、男性の目にとまらなくてはいけなかった。しかし、同様に考えている女性はあちらにもこちらにもいる。こんなとき、自分と他の女性を比較してしまうのは当然であろう。とにもかくも、この比較するという習性がマウンティングの最大の原因である、と著者たちは言う。

女性のカーストはだから、どれだけ匠に言葉を駆使できるか、にかかっている。コミュニケーション能力の有無が重要になるとでも言えばいいだろうか。

というふうにまとめれば、女子カーストコミュ力について、という平凡なところに収まってしまう。しかし、私が読んだ限りでは、それだけを言っているようには思えなかった。どこか、私の琴線に触れるものがあった・・・・・・。本書が卓越しているとすれば、マウンティングという言葉を広めることによって、女性が他の女性との会話で神経すり減らし、非生産的に明け暮れる現状を打破しようという意図が込められていることであろう。「今のマウンティングだよ」と言うことによって、「あ、無駄なことやっちゃった、ごめんね」というふうに関係を健全に保つことが出来る、ということだ。著者たちはこう説明している。

瀧波 不思議キャラを演じていて、「〇〇ちゃんて××だよね〜」って意図していない方向にいじられたとき、一度でも嬉しそうにすると、そこからどんどんいじられていくから。イヤな方向にいじられたら、「そういうこと言われたくないなあ」って即座に意思表示したほうがいい。
犬山 「私はいま、あなたにマウンティングされていることに気づいてますよ!」というアピールですよね。延々とマウンティングされるまえに釘をさしておく。
瀧波 「あなたの策略に気づいていますよ」というメッセージを出せば、しかけた側は「しまった!」と思う。私、わざわざマウンティングという言葉を広める本を出す意義ってそこにあると思っているんです。もし、この言葉が広まったら、「も〜、マウンティングしないでよ〜(笑)」って朗らかに言えるんですよ。それってすごい効果的なマウンティングブロックだと思うんです。
犬山 グループ内に「この言動はダメだ」という共通認識ができれば、摩擦も減りますよね。(234−35)

マウンティングブロックをすることによって、女性間の「摩擦」が減っていく。「摩擦」が減っていくということは、無駄な劣等感や被害妄想も反省の対象となり自ずと減っていくはず。そうやって、女性間の関係が健全になっていくだけでなく、女性個人も健全になっていく。そしてその先には、相手をマウンティングすることよりも、相手を思いやる気持ちが生まれてくるのが見て取れる。深読みかもしれないが。これを、シスターフッドを目指す言説実践であると言わずしてなんと呼べばよいだろうか。

シスターフッドは手垢にまみれた言葉である。女性がシスターフッドをもっていると主張された当時は、孤軍奮闘していた女性たちは歓喜してそれを迎えたものだった。しかし、しばらくすると、女性がシスターフッドをもっていると言うことは、女性が連帯する性である、そういう本質的なものをもっている、と言うことと同じではないかと批判される。この本質主義が女性を規定してしまい、しまいには女性間にある差異を抑圧するものではないか、と。おりしも、シスターフッドによる女性の連帯を主張したフェミニズムが、実は白人中産階級中心のものであり、そこからは、階級、人種、性的マイノリティ、あるいは障碍をもつ女性が排除されていると批判されていた。シスターフッド受難の時代である。そして、ジュディス・バトラー構築主義宣言により、女というカテゴリーは存在しない。女はアプリオリに存在するのではなく、様々なシステムはもとより、様々な言語・行動実践によって構築されるものなのである、と言挙げされると、シスターフッドの構成員である女とはそもそも存在しないのだから、シスターフッドも存在しない、ということになった。

ところが、このシスターフッドは存在しない、ということが、シスターフッド構築へと一部の女性を駆り立てたのである。存在しないのであれば、構築すればよいではないか。行動・言説実践により、作り上げればよいではないか。このようにバトラーの主張が一回転して、存在しないものを実践により作り出すという契機となった。

私は、瀧波や犬山の気持ちを代弁しようとも思わないし、代弁できるとも思わない。しかし、活字になった二人の対談は、読みようによっては、シスターフッドを遠い先に見据えたものに思える。女性よ、無駄なマウンティングは止して、良好な関係を築こう、そうした方がこの社会では生きやすいよ、と。自分と他の女性を序列関係ではなく、水平な関係に置いてみよう。そこには何か女性にとって良いことがあるかもしれない。二人はそう語っているように見える。シスターフッドはこういうところから作られていく。

ファンタジー小説は功利主義的か否か

森見登見彦の『夜は短し歩けよ乙女』(2006)を読む。積読していたものである。タイトルが気になっていて読もう読もうと引き延ばして数年。ようやく手にしてみた。ネットの感想文を読んでみたら、文体が独特で、それが良いとか読みづらい原因だ、などと書いてある。評価を分ける文体の問題は、最後に結ばれることになる男女が交替で語る際に、どちらも一人称で書かれていて混乱するという点がひとつ(が、私の見解によれば、男は「である」調、女は「です」調で性差を出しているので、読む上で問題はないのだが)。もうひとつは、明治・大正期に使われ、現在は多分死語になっているだろう難解な漢字が多用されているので読みづらいということ(が、私の見解によれば、そのような難解な言葉に重要な意味など乗せられていないので、すっ飛ばして読めばいいのであって、全部理解する必要はないという理由で、読む上で問題はない)。

では、本書の人気の秘密は何かと考えれば、これらの難点が反転して好印象を読者に与えるということであろう。独特の文体で、ファンタジーにリアリティを与えている力量が評価されているといえばいいだろうか。

ネットの感想文をまとめればこういうことになる。私もそう思うのだが、それだけでは人気の理由を説明したことにはならない気がする。

では、キャラ説はいかがだろうか。登場人物はみなキャラが立っている。人物の表層がおもしろおかしくて、重い内面の葛藤など書かれていないから、気軽に読める。キャラで盛り上がれるファンタジーというところか。

確かに内面は書かれていない。書かれているのは、人物の奇天烈奇想天外な行動ぶり(キャラ立ち)である。最後に大団円として描かれるであろう恋愛の成就は予定調和として想像できるので、読むべきはこの行動ぶりなのである。ここのところをおもしろいと思うか、馬鹿らしいと思うかで評価が分かれるのであろう。

そう考えたら、富岡多恵子が書いた一節が思い起こされた。彼女はこう言っている。

「「生き甲斐」ということばには、生きることに対して功利的、少なくとも効率的な意味合いがついてくる。生きていてよかったと思いたい、生きていてよかったとおもえるようなことをしたいということである。」(上野千鶴子『女の思想』、114頁)

富岡はこのような功利的生き方を否定している。生きることと功利的生き方に付随する幸福感を結びつけることをよしとしないのである。

富岡多恵子という補助線を使えば、ファンタジー小説の人気のバロメーターが説明できる。簡単に言えば、登場人物の生き様に功利的臭いを嗅ぎとるかどうかが、人気の分かれ目となる。嗅ぎとれば、そのファンタジー小説は、良き生き様を肯定するジャンル自己実現語りの複製となり、もはやファンタジーの体裁を成さないのではないかと考える。功利的臭いがなければ、それはファンタジーとして成立する。

夜は短し歩けよ乙女』にそって言えば、登場人物たちの生き方(行動ぶり)は、功利の基準軸では測れない。例えば、夏真っ盛りのなか、狭い空間に閉じこもって、炬燵に入り、炬燵の暖かい照明を上から浴びながら、とびきり辛い火鍋を食して、ダウンすることなく、最後まで残り、お目当ての本をゲットしようとするエピソードには、そういうことをやるのに意味があるのか、私にとって良いことなのか、という功利的問いが一切ない。ただ、物語を繋げるためのおもしろいエピソードに過ぎない。この功利的生き方がはぎ取られた生き方が本作の人気の秘密ではないかと思う。

こう考えると、ファンタジー小説の隆盛は、良き生き方を強制する社会への抗議と説明できる。それはとりもなおさず、幸福におなりなさいと激励する社会に対して、こんな社会で幸福になれるはずないではないか、というファンタジー小説読者の無意識である。『夜は短し歩けよ乙女』に描かれる奇天烈奇想天外な行動ぶりをおもしろいと思うひとは、この社会で生きることを困難に思っているひとである。そして、そう思うひとが若者に多い、ということを読者に若者を多くもつファンタジー小説は教えてくれる。

鬱病の本を読んで

適応障害と不安神経症と軽い鬱をまとめて患っている私は、神経症系本をよく読む。そういう本を読んだ後は、例えば著者の鬱が感染したようになって、気分がすこぶる悪くなり、寝込むことが多い。それでも読んでしまうのは、他の人はどうやって神経症と共存しているのだろうと、ちょっと智恵を拝借したいという気持ちからだ。

よく読み返す本は、細川貂々のコミックエッセイ『ツレがうつになりまして。』。鬱に苦しむ夫への妻のやさしい心配りが胸にしみる。私なら何日も一日中寝ている夫に対して、「ナマケもの!」と叫びたくなる気持ちを抑えることができない。貂々さんは、時に爆発することはあれ、基本的にはポジティブ・シンキングで難を乗り越える。見習いたいものだと感心して読む。

先日読んだ本もコミックが少しばかり入った、大原広軌の『精神科に行こう』。鬱にかかった著者が、「神経症にかかったら、精神科に行こう、全然恐くないよ」というメッセージを伝える。で、その伝え方が軽快。自虐ギャグ調で書かれていて2頁に1回は笑える。本当に笑って読める本なのだが、メッセージ性が強すぎてひいてしまうところもある。出版が2002年だから、当時はまだメンタル・クリニックに通院することへの偏見があったのだろうと思う。大原は「全然OK」と言って、精神科をディズニーランドの様に楽しいところに書き換えているが、経験者としてそこに違和感をもつ。

私は、10年以上メンタル・クリニックに通院しているので、内科に行くのとなんら気分的に変わらない。と言いたいところだが、待合室で診察を待っている時はいつも不安をもっている。待合室の誰かがいつ爆発して、「俺はキリストだ」、「私はマリア様よ」と言い出すか不安なのである。なぜ不安なのかは、見てはいけないものを見てしまうかもしれないからである。そういう光景を見た日には世界が崩壊するごとく感じる。また、私の脳患いもいつ暴走するか分からない。事実、とても疲弊感があるときなどは、床に寝そべりたいという衝動に駆られるが、なんとかそれを抑えている状態なのだ。

そう、神経科の待合室は人を不安に陥れる。私が初めて精神科に行ったときは、通院が継続できるかと悩ませる程、待合室はメニエール状態のごとくに歪んでいた。座っている前がちょうど薬をもらうところだったのだが、そこで若くて、スタイル良し、大変イケメンの少年のごとき男性が薬をもらっていた。こういうひとも精神科に来るのかと一安心したのもつかの間、彼はA4くらいの大きさの袋に入った薬を3束ももらったのである。薬剤師さんは、「では、2週間後に」とえらく明るい。私は「あれで2週間分なのか」と暗くなり、これから不安スパイラルに入り、周りを見渡し、耳をすますこととなった。

すると受付の方から明るい声が聞こえる。どうやら精神科は明るいとこらしい。受付の女性が「問診票書きますか?」と聞いていた。すると中年の女性が「ええ、初診ですから。〇〇大学の〇〇先生のご紹介で来ました」と答える。ふうん、手続きはみんな同じなのね、と思っていたら、その中年女性が声を高くしてあいさつしていた。「あら、〇〇さん、お久しぶり、どうしてらした?」そう、その女性は常連さんだったのである。では、さっきの受付での会話は何だったのか。間違ったところに来てしまった、私はそんなに重くはない、と必死に足を踏ん張った。という調子である。

それでも、不安になるのは待合室だけ、診察室は内科と同じようなのだろう、胸をかき乱すようなことがあるはずもない、と思っていた。予診後、看護師さんから名前を呼ばれて診察室に入る。そこには60歳ぐらいの女医さんがいた。女性学に関心があった私は、「おお、この人は男性中心の職場中の職場で長く働いた人なのか、素晴らしいではないか」と感心し、そういう先生の患者になったことを誇りに思った。気分をよくした私は、聞かれた質問にはきはき答えていった。ところがである。その多幸感があるところで躓いた。「他に不安なことはありますか?」「はい、夫の散財が不安です。将来どうなるかと思うと」「あのですね。こういう方もいらっしゃるんですよ。孫が小学校に入るからと言って、ランドセルを買われたんですけどね、それが同じものを6つ買われたんですよ。そういうものと比べると旦那さんの散財はたいしたことないですよ。それぐらい、許してお上げなさい。」私はここでもまた不安になった。孫は1人しかいないのにランドセルを6つも買う?これは非常に恐いことではないか。理解できないことは恐い。と同時に、先生は明るい。将来なんて考えるのは止しましょう。大切なのは今ですよ。私は、周りのひともみんな将来のことを考えていると思っていたが、そんなことより今をどう生きるかの方が大事でしょうという考えをもつことも必要なことがあるらしいだ。自分の固定観念を覆されたことからくるこの不安感。そう、診察室もまた不安で一杯なのである。

精神科は不安だらけのところである。私の勝手な見解であるが。不安神経症の私が精神科に行って不安になって帰る、というのが今はパターン化している。で、メンヘル系の本をまた読むことになるのだが、本のタイトルは失念したが、また誰が言ったかも失念したが(信田さよ子さんだったと思うが)、最近、よい言葉を拾った。「回復には悲しみがともなう」というものである。回復するには、自分を今の状態にしているものから自分を引き離さなければならない、ということであろう。今の状態が苦しくてもその状態がなくなるとその次に何が来るか不安になるから手放せないということがある。苦しい状態が今の自分を担保してくれているのだ。矛盾した言い方になるが、その苦しい状態がある種居心地がいいのである。だから、その苦しい状態を手放すということは、大切だと思っていたものを手放すこととなり、そうすると大切だったものを手放す訳だから、悲しみがやってくる。この悲しみを恐れていては回復できない。回復したければ断て、である。悲しみを引き受ける勇気がもてるひとは神経症にならない。

キャロル・ギリガンはカントと出会っていた

キャロル・ギリガンは20世紀後半に女性学の分野で活躍したアメリカの発達心理学者である。彼女を著名にしたのは、1982年に発表された『もうひとつの声』である。ここで彼女は、後に「ケアの倫理」と呼ばれることになる、女性がもつとされる特徴を述べている。まとめてみれば、女性は他人への配慮、他人との関係性、他人への責任等の道徳観のもとで思考、行動しているのではないか、ということである。そしてこれら思考、行動は、客観・具体的にこういうものだと断定することは出来ない。なぜなら、それらは他人依存的であるので、文脈により変化するものだからである。

ただ、これだけのことを言って著名になったのかと私は驚きを禁じ得ないが、女性学が隆盛していた1980年代、誰もが思っていても口に出せなかったことを言ったというその勇気が効いたのだろうと思う。振り返ってみれば、当時は、女性性というものが男性によって女性を抑圧するために作られた装置であるという意見が支配的で、女性性というものを女性が持っているとする意見はどちらかと言えば生物学的本質主義として軽視されがちであった。そんなとき、実証研究から女性は女性性、それもケアの倫理をもっているのである、と堂々と議論を開陳したのがギリガンなのである。しかも、このケアの倫理は社会のなかでよく見られる女性の思考や行動とも一致するものでもあった。いわば、現状を肯定するものでもあり、ということは、女性学が女性を抑圧する社会を肯定するものとなるのではないか、となり、フェミニズム界は騒然となったのである。と、私は想像する。

事実、ケアの倫理に対しては多くの賛否両論が寄せられた。詳細は省いて簡単にまとめてみる。賛同派は、ギリガンのケアの倫理をさらに発展させて、「ケアの倫理学」なる分野を作り出し、ケアの倫理が今の荒廃、硬直した社会を繕っていくのだと強調した。一方、批判派は、ギリガンの実証研究の手続きの不備を指摘し、彼女の結論には納得しかねるとの態度をとる。例えば、女性の声というが、その声は社会・歴史的・男女関係等により決定されており、時間と空間が変化すれば、声そのものも変わるものだ、なのにその声を女性のもつ声として普遍化しようとするのはナンセンスである、という具合である。

私自身の立場としては、女性はケアの倫理をもっているかもしれないし、もっていないかもしれない、と思っている。つまり、その可能性は完全には否定出来ないと思う。ただ、アカデミアの様々な理論を駆使してそれを机上で肯定・否定するということには与しない(例えば、否定派、山根純佳の『なぜ女性はケア労働をするのか』。)こういう議論は、往々にして、自分の現在の実感を無視している。確かに「いまここ」にあるものなのだが証明が出来ないために無視している。が、実感を無視して意見を言うと、自分の議論ではなくなる。「私」がいない空疎な議論となる。私はこういう机上の空論が大嫌いなのだ。で、なぜこういうことが生じるかというと、実感を非科学的なものとして排除しないことには男性中心のアカデミアの敷居をまたぐことは出来ないし、ましてや生き残ることも出来ないからである。

話が逸れてしまったが、ケアの倫理は女性学に衝撃を与えたという議論に戻ろう。ケアの倫理への賛否両論については、私は数冊本を読んだだけなので自信をもって言えないのだが、この賛否両論はどうも偏っている気がするのである。上に書いたように、賛同派はケアの倫理を発展させる方向性をもち、否定派はポスト構造主義的理論でケアの倫理の綻びを探す方向性をもっている。いわば、賛成、反対という極めてプリミティブな反応しかないようなのだ。ケアの倫理から始めてべつの問題系に接続し、女性が抱える問題をより多角的に考えてみようとする議論がないように思えるのである。

悶々とそう考えていたときに、たまたま中島義道の『純粋異性批判』を読んだ。どういう本かというと、「男には決して理解できない女の論理は、一体どこから生まれるのか?カントに代わって女という不可解を徹底解剖する、大胆不敵な女性論にして最良のカント入門書!」(帯より)である。で、この本の中で、著者の中島はギリガンと同じような状況を使って議論を展開しているのである。

ギリガンも中島も10代の男女の子どもがある状況でどう反応するかを見ようとする。

*中島の場合
10歳の男児に一人の正直な男の話を聞かせるとしよう。国王とその手下たちが、(アン・ブリンのように)もはや妃が邪魔になったから不貞の罪を被せて処刑しようと企み、彼に仲間に入れば利得と官位を約束するが、入らなければ自由と相続権を剥奪し生命さえも奪うと脅かし、彼の家族が屈服を懇願しているとも話す。(194項)

*ギリガンの場合
ハインツという男がいた。この男の妻は今重病で、それを直すには高価な薬を必要とする。が、ハインツはその薬を買うだけのお金をもっていない。薬の値段を下げてくれと薬屋に交渉するも、薬屋は頑と首を縦に振らない。ハインツは妻を救うために薬を盗むべきだろうか?

いうまでもなく、中島はカント倫理学のなかでこの仮説を使い、ギリガンはケアの倫理を説明するためにこの仮説を使っている。

が、二人が想定する子どもの反応は全く同じなのである。中島はこう言う。男「がその誘惑に動ぜずにきっぱり偽証を拒否するとき、これを聞いた少年は心から感嘆し、自分もこうなりたいと思うに違いない」(194)。中島が言わんとすることは、男は真理や自分の信念に誠実であることを善とする、ということである。ギリガンはこう説明する。少年の答えは明快で、ハインツは薬を盗むべきだと考える。理由として少年があげるのは、人間の命はお金よりも価値があるからである。もしハインツが薬を盗まなければ妻は死んでしまう、ということである。

二人の論者に共通するのは、男は自分の実利には無関係に、真理に誠実に行動するということである。それが自分にどんな結果をもたらそうともである。

少女の場合に対しても同じ反応を想定している。ギリガンが説明するには、少女は薬を盗むべきではないと考える。盗むという方法以外に他の方法があるんじゃないかと思う。例えば、借金したりとか。でもハインツは薬を盗むべきじゃない。だからといって、妻を死なせてもいけない。中島は「10歳の女児だったらどうであろうか」(195)とだけしか書いていないが、本を読む限りでは、中島が想定している反応は、少女は国王とその手下たちとも家族ともまず話し合って、他に方法がないかを考えるべきだと思う。もし、私が同意したら家族が悲しむし、家族の身にも危険が及ぶかもしれないし、国王だって妃とは仲が良かった時期もあったはず、そんな残酷なことをすべきではない。ということだろうと思う。

どうだろうか?女は、他人との関係性を重要視する、ケアの倫理をもっているという意見の一致がここにあるのではないだろうか。

これらの仮説から導き出せることは、ある局面で男女が違う反応を見せるということである。男は、真理への誠実性、そしてそれは自分の内なる誠実性ともつながるもの、を重要視する。一方、女は他人との関係性を重要視し、それはときには自分に実利がある場合もあれば、自分を犠牲にすることもある。

二つの反応を優劣関係に置くのはこの際、各人の自由としよう。が、確実に言えるのは、ギリガンの議論はカントの道徳論と地続きだったということである。となれば、ケアの倫理が発表されたとき、それに賛否を示すことよりは、ギリガンが想定していたであろう女がもたない思考、行動原理を、どうして女はそれをもたないのか、と問うことではなかっただろうか。

私はこの問題は精神分析によってしか理解できないだろうと思うが、まだ考えている最中なので、今ここで述べることはできない。しかし、自戒を込めて言うのだが、女性学論者がこの問題に取り組んで来なかったことの帰結が、STAP細胞の小保方晴子氏でなくてなんだろうか?博士論文におけるコピペ、引用元の記載漏れ等は彼女自身の性格によるものだろうか?女性一般が抱える問題ではないのだろうか?いまのところ、女性学論者はマスコミの「女」の使い方の検証だとか、あるいは研究者としての勉強不足などと、問題の周辺をグルグルまわっているだけで、本当に検討しなければいけないところには触れたがらない。

熟議や討議は政治手法としてどうなのか?

東浩紀の「一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル」と岡野八代の「フェミニズム政治学 ケアの倫理をグローバル社会へ」を同時に読んでいる。それで悩んでいる。両者とも、社会をドラスティックに変えようというところでは一致しているのだが、その政治的手法がどうも正反対のようなのである。

東はルソーの提案する一般意志をベースにして政治の方向性を決定していこうと言う。一般意志とは、私たち一般の人々がもつ意思や欲望や要求などを集合知として集計した結果得られるものである。ここで集合知が何であるかが重要となってくる。集合知の意味を知っておかないと、東の提案は単なる衆愚政治となってしまうからだ。東が言うには、集合知とは、「みんなで集まって考えると、ひとりでは生み出せなかったようなうまい回答が出てくることがしばしばある」(30)が、それを指すという。こういうと、世界中の人々が集まるなんて不可能じゃないか、という疑問が出てきても当然だ。それで、東はネット社会論から集合知をもう少し精緻に説明する、精緻といっても結構抽象的なのだが。とにかく、その説明はこうだ。「集合知は、分散し独立した判断を下す多様な個人の意見を、適切なメカニズムで集約することで得られるものである。集合知の手法の擁護者によれば、特定の条件さえ満たすならば、専門的な判断が要求される問題に関しても、招集の専門家よりも多数のアマチュアのほうが原理的に正しい判断を下すことができるらしい。」(30)そして、この「適切なメカニズム」が例えば、検索エンジンとしては精度が高いと言われるグーグルなのである。

つまり、集合知を得られるインフラが整いつつあるからこそ、現状打破の意味もこめて、一般意志を政治の核に置いてみるのもいいのではないか、というのが東の意見である。

ということは、政治をする上でこれまで当然視されてきた熟議や討議は一般意志(集合知)の下位に置かれることになる。いや、東はもっと過激に、熟議や討議は不必要なのだと言っている。

東の意見は突拍子もないようなことのように聞こえるが、実はそうではない。例えば、彼の言う集合知らしきものは、日本のほとんどの大学が採用している。そう、授業評価アンケートだ。優秀であるとか真面目であるとか、そういう理由で、特定の学生に授業を評価してもらうよりも、授業を受けている学生全員に評価アンケートをしてもらい、その集合知を授業の質を上げるにあたって参考にする方が理に適っていると大学は踏んでいるのだ。

このような例を考えると、熟議や討議なしの、一般意志に基づく政治があってもおかしくない。いや、おかしいどころか、時代の流れに乗った当然の手法なのかもしれない、と思うのである。

岡野もまた、野心的な意見を提案している。ケアの倫理をグローバル社会の倫理としようというのである。ケアの倫理とは、ケアが必要な人のニーズに対して責任を持つことを言う。それから敷衍して、自分だけではなく他者への配慮を怠らないこと、その配慮はある理念のもとに固定しているものではなく、関係性や状況に応じて変わってくるものであること等を意味する。文脈や人が誰であるかで配慮のやり方が変化するのだから、例えば同じ介護の現場でも、今日こう言ったとしても、明日は違うことを言うことがありうる。悪い表現だが、意見がコロコロと変わって、一貫性がないということもあるうるのである。というか、一貫性がないのがケアの倫理なのである。

だからであろう、ケアの倫理はこれまで政治の領域からは排除されてきた。具体的に言えば、ケアの倫理のもと、他者に依存する者は、あるいは依存に関わる活動に従事する者は、正当な政治的主体と見なされてこなかった。既存の政治を行う者にとっては当然だろう。他者に依存し、自分の、個としての揺るぎない意見や意思を持たぬものがどうして政治を行うことができるだろうか。他者に依存するが故にその他者に左右される者が、どうして万人のための正義の政治をすることができようか。

岡野はこの政治観に真っ向から対立する。果たして、既存の政治はなにか欠落しているのではないか、と岡野は問う。そしてその欠落しているものがケアの倫理というわけである。ところがケアの倫理は一貫性がないため分が悪い。それで脇をかためなければならない。アーレントの自由の概念を岡野が参照するのもこのような事情による。岡野はこう書いている。長いが引用しよう。

「ことばと言論は、個人の意思ではコントロールしきれない関係性の網の目の中でこそ独自の意味が与えられる。そのため、いかなる者であっても、自分のことばや言論は、自らの意思によって支配しきれないために、あまりにも脆く、無制御である。それだけではなく、なにか確実なものを達成することを意図する、目的をもった主体からすれば、あまりにも他者依存的であり、偶発的な要素が強い。ある者が発したことばの意味は、彼女のことばから他者が受け取る意味と、必ず同じではない。だが、そうした偶発的な要素を否定することは、わたしたちの言論活動によって生み出される自由な空間を破壊する。なぜなら、ことばの意味が文脈依存的であるかぎり、言ったことと聞かれることのあいだい不可避的に生じるこのズレこそが、関係性の網の目から湧き上がることばのちからの効果でもあるからだ。」(83−84)

そしてアーレントをもちだす。

アーレントにとって自由であることとは、ひとつの意思や動機を越えた、したがって、新しく、予測不可能ななにものかがもたらされる空間を享受できることである。」(84)

既存の政治議論は、自由な意思を持った主体によってなされなければならない。自由とは、なにかからの自由でもあり、なにかへの自由でもある。そう、自律した主体だ。政治領域における熟議や討議はこのような主体によって担われなければならないという考え方があった。が、岡野はそうではない、と言う。自由でなくとも、依存していても、状況に縛られていても、そのような人々の声と衝突することで、政治議論の場に自由がもたらされるのだと。だから、排除された者を政治領域に迎え入れることこそが、停滞している政治の現状打破につながるのだし、弱肉強食のグローバル社会も変えられるのであると。

ここで整理しよう。東も岡野も、現在の社会の変革に関心をもっていて、政治的手法のオールタナティブを提案している。東は一般意志を、岡野はケアの倫理をである。

だが、同じような議論のやり方のように見えて、二人は決定的に違っている。東は政治には熟議や討議は不必要だという立場である。一方、岡野は、政治を行うにあたって、これまで排除されてきた者を迎え入れることで、熟議や討議に自由をもたらし政治を活性化しようという立場なのである。熟議や討議は不要。より良い熟議や討議が必要。

果たして、どちらがいいのだろうか。ただ言えるのは、岡野の議論には矛盾があるということである。既存の政治を組み替えると言いながら、既存の政治的手法そのものに対しては何の疑問ももっていないからである。岡野は既存の政治から外に出ていない。

ケアの倫理について考え始めている私にとって、その点において岡野の議論には満足できない。