男性不信の女性

男性不信の女性にとって、当たり前のことだが、男性はいつも加害者の立場にいる。だから、夜遅く帰宅するとき男性が後ろから歩いてきたり、エレベーターに男性とふたりきりになったりすると、その男性が怖い。何されるかわからないという気持ちに支配されるからだ。

たとえば、中村うさぎは男性不信である。彼女がデリバリーヘルス嬢をやっていたとき、客が待っている部屋の前に立つと、恐怖でからだが震えたという。どんな客かわからないことも理由だが、それよりも客が男性であるという事実そのものに怯えたらしい。会って接触する前から不安が募る。そのとき、彼女は「自分は男性を信用していない」と肌で感じている。客が女性だったらありえないことである。

こういう男性不信の女性にとって、考えさせられる判決が先ごろ(4月15日)出た。最高裁が電車内で痴漢をしたとして強制わいせつ罪に問われた男性に無罪を言い渡したのである。判決理由は、被害があったとされる女子高生の供述に疑いがあるというもの。男性が「犯行を行ったと断定するには、なお合理的な疑いが残る」と述べられ、痴漢被害を扱うさいには、「特に慎重な判断が求められる」とまで言及している。

満員電車に乗ることは痴漢と隣り合わせになることである。女性は痴漢されないよう立ち位置をいつも考えておくし、考えたくないひとは女性専用車両を利用する。男性も痴漢に間違われないように涙ぐましい努力をしている。テレビのインタビューによると、女性が前にいたら、背中をむけるようにするとか、両手を上にあげるとか、果ては、女性とはまったく異なる理由で、そんな気苦労したくないので、男性専用車両を設けてほしいという声もあった。

でも、満員電車は当然のことながらこういう男性の努力に対してはお構いなしで、方向転換も両手上げもできないようにすることが多い。で、男性の手が中途半端なところにいってしまい、電車の揺れで、意図してないのに女性の胸を「ギュウ」と押したりしてしまうのである。

さて、このような意図しない身体の接触をどう考えるか、というのが、今回の判決が男性不信の女性に突きつけた課題である。

男性不信の女性にとって満員電車は悪の巣窟。といっても、そのような女性が男性に、私はあなたをはなから信用していません、とあからさまな態度をとっているわけではない。普通は、身体が接触しなければいいけどなあ、程度にしか思っていないはずである。が、いざ、接触があると、その接触を痴漢ではないかと疑う。なぜなら、男性は信用できないからである。わざと触ってきたに違いない、と決め付けてかかるに足る根拠があるからである。その根拠が、男性は女性を好きなように扱っていいと思い込んでいること。

男性不信の女性はそう考えるだろうし、こうなると、一連の行為が痴漢に映る。たとえ、意図しない接触であったとしてでも。

こういう場合、供述以外の証拠を出せるだろうか。もちろん、出せない。ヘンリー・ジェームズの『ねじの回転』が示すように、痴漢が実際あったかどうかではなく、身体の接触を痴漢と見る目が問題だからである。目が悪を探しているのである。

男性不信の女性の目が悪を探すかぎり、どんな接触も痴漢である。が、判決はそのような目を「合理的疑いが残る」ものとして退ける。そこで彼女は問うだろう、私の目をつくったのは男性社会ではないか、それをも退けるのは、あまりにも酷ではないか、と。これを翻訳すれば、だって誰が見てもあれは痴漢です、ということになる。

男性不信の女性にとって、身体の接触に意図があったかどうかではなく、接触したこと自体が問題である。意図を問題化したいのであれば、男性不信の原因である男性社会を是正する方が先だろう。今回の判決は男性不信の女性を怒らせたことと思う。ということは、ほとんどの女性の反感を買ったと思われる。中村うさぎの体験をリアルに感じる女性は多いはずだからである。