ファンタジー小説は功利主義的か否か

森見登見彦の『夜は短し歩けよ乙女』(2006)を読む。積読していたものである。タイトルが気になっていて読もう読もうと引き延ばして数年。ようやく手にしてみた。ネットの感想文を読んでみたら、文体が独特で、それが良いとか読みづらい原因だ、などと書いてある。評価を分ける文体の問題は、最後に結ばれることになる男女が交替で語る際に、どちらも一人称で書かれていて混乱するという点がひとつ(が、私の見解によれば、男は「である」調、女は「です」調で性差を出しているので、読む上で問題はないのだが)。もうひとつは、明治・大正期に使われ、現在は多分死語になっているだろう難解な漢字が多用されているので読みづらいということ(が、私の見解によれば、そのような難解な言葉に重要な意味など乗せられていないので、すっ飛ばして読めばいいのであって、全部理解する必要はないという理由で、読む上で問題はない)。

では、本書の人気の秘密は何かと考えれば、これらの難点が反転して好印象を読者に与えるということであろう。独特の文体で、ファンタジーにリアリティを与えている力量が評価されているといえばいいだろうか。

ネットの感想文をまとめればこういうことになる。私もそう思うのだが、それだけでは人気の理由を説明したことにはならない気がする。

では、キャラ説はいかがだろうか。登場人物はみなキャラが立っている。人物の表層がおもしろおかしくて、重い内面の葛藤など書かれていないから、気軽に読める。キャラで盛り上がれるファンタジーというところか。

確かに内面は書かれていない。書かれているのは、人物の奇天烈奇想天外な行動ぶり(キャラ立ち)である。最後に大団円として描かれるであろう恋愛の成就は予定調和として想像できるので、読むべきはこの行動ぶりなのである。ここのところをおもしろいと思うか、馬鹿らしいと思うかで評価が分かれるのであろう。

そう考えたら、富岡多恵子が書いた一節が思い起こされた。彼女はこう言っている。

「「生き甲斐」ということばには、生きることに対して功利的、少なくとも効率的な意味合いがついてくる。生きていてよかったと思いたい、生きていてよかったとおもえるようなことをしたいということである。」(上野千鶴子『女の思想』、114頁)

富岡はこのような功利的生き方を否定している。生きることと功利的生き方に付随する幸福感を結びつけることをよしとしないのである。

富岡多恵子という補助線を使えば、ファンタジー小説の人気のバロメーターが説明できる。簡単に言えば、登場人物の生き様に功利的臭いを嗅ぎとるかどうかが、人気の分かれ目となる。嗅ぎとれば、そのファンタジー小説は、良き生き様を肯定するジャンル自己実現語りの複製となり、もはやファンタジーの体裁を成さないのではないかと考える。功利的臭いがなければ、それはファンタジーとして成立する。

夜は短し歩けよ乙女』にそって言えば、登場人物たちの生き方(行動ぶり)は、功利の基準軸では測れない。例えば、夏真っ盛りのなか、狭い空間に閉じこもって、炬燵に入り、炬燵の暖かい照明を上から浴びながら、とびきり辛い火鍋を食して、ダウンすることなく、最後まで残り、お目当ての本をゲットしようとするエピソードには、そういうことをやるのに意味があるのか、私にとって良いことなのか、という功利的問いが一切ない。ただ、物語を繋げるためのおもしろいエピソードに過ぎない。この功利的生き方がはぎ取られた生き方が本作の人気の秘密ではないかと思う。

こう考えると、ファンタジー小説の隆盛は、良き生き方を強制する社会への抗議と説明できる。それはとりもなおさず、幸福におなりなさいと激励する社会に対して、こんな社会で幸福になれるはずないではないか、というファンタジー小説読者の無意識である。『夜は短し歩けよ乙女』に描かれる奇天烈奇想天外な行動ぶりをおもしろいと思うひとは、この社会で生きることを困難に思っているひとである。そして、そう思うひとが若者に多い、ということを読者に若者を多くもつファンタジー小説は教えてくれる。