シスターフッドが一部のサブカルに存在することについて

漫画家瀧波ユカリサブカル系エッセイスト犬山紙子による『女は笑顔で殴りあうーマウンティング女子の実態』(2014)を読了。一読したところ、女子のカースト実態を、マウンティングという動物の生態から借用した言葉で説明する本と思える。確かに、そう読めないこともないが、実はそれだけではないのではないのか、と思わせる本。どういうことかというと、一部の女性(私もその一人)が、どんなに古いと言われようとも、そんなものないと言われようとも、果てはダサイと思われても、決して手放そうとしないシスターフッド(女性間の連帯)というものを称揚する本ではないかと思えるということだ。つまり、著者たちは、表面では女性を茶化しながらも、実のところ、女性が心底好きな人たちであり、女性同士のつながりがもっともっと紡げたらいい、と裏声で語っているような気がするのである。そういう人が書いた本は心理的に安心して読める。彼女たちは決して私たちを裏切らないってね。そういうわけで、一読をお勧めする。

では、どんな本なのかを説明しよう。タイトルにある「マウンティング」は、帯に解説があるとおり、関係性のなかで序列をつけようとする行為である。帯を読んでみよう。

マウンティング(mounting)
サルがほかのサルの尻に乗り、交尾の姿勢をとること。霊長類に見られ、雌雄に関係なく行われる。動物社会における順序確認の行為で、一方は優位を誇示し他方は無抵抗を示して、攻撃を抑止したり社会的関係を調停したりする。馬乗り行為。(『大辞林』)

で、女性もこのマウンティングをすることがあるということである。一人の女性がもう一人の女性に対して、ある状況において、「ああ、この人の上に立ちたい」とか「本当は、私の方がこの人より上なのよね」と示したいとき、あからさまにそういう行動や態度をとるのは女子らしくないので、婉曲に、上に立つことが出来る言葉を吐くのである。このマウンティング行為を始めると、互いにマウンティングを競い始め、そのうち会話は肝心なことからズレてとてつもなく歪になり、その不毛さを前に両者とも暗い気分に陥る、という非生産的なものを生んでしまう。

なぜに、非生産的であるにもかかわらず、女子はマウンティングをしてしまうのか。著者たちの意見は一致しており、それは相手の女性に対してコンプレックスをもっていたり、妬みや嫉みを抱いていたりなど、自分が劣位に置かれることを受け入れることが出来ないからだという。それで、マウンティングして優位に立とうという空しい行為に走るというわけである。

やはり、そういう感情をもつとは、女性とは劣性であることよ、と思ってはいけない。劣性であるのではなく、女性は自分と他の女性を比較するという行動をとる習性を学習してしまったのである。例えば、私が思うに、これまで、女性が社会で生き残っていくには、男性の目にとまらなくてはいけなかった。しかし、同様に考えている女性はあちらにもこちらにもいる。こんなとき、自分と他の女性を比較してしまうのは当然であろう。とにもかくも、この比較するという習性がマウンティングの最大の原因である、と著者たちは言う。

女性のカーストはだから、どれだけ匠に言葉を駆使できるか、にかかっている。コミュニケーション能力の有無が重要になるとでも言えばいいだろうか。

というふうにまとめれば、女子カーストコミュ力について、という平凡なところに収まってしまう。しかし、私が読んだ限りでは、それだけを言っているようには思えなかった。どこか、私の琴線に触れるものがあった・・・・・・。本書が卓越しているとすれば、マウンティングという言葉を広めることによって、女性が他の女性との会話で神経すり減らし、非生産的に明け暮れる現状を打破しようという意図が込められていることであろう。「今のマウンティングだよ」と言うことによって、「あ、無駄なことやっちゃった、ごめんね」というふうに関係を健全に保つことが出来る、ということだ。著者たちはこう説明している。

瀧波 不思議キャラを演じていて、「〇〇ちゃんて××だよね〜」って意図していない方向にいじられたとき、一度でも嬉しそうにすると、そこからどんどんいじられていくから。イヤな方向にいじられたら、「そういうこと言われたくないなあ」って即座に意思表示したほうがいい。
犬山 「私はいま、あなたにマウンティングされていることに気づいてますよ!」というアピールですよね。延々とマウンティングされるまえに釘をさしておく。
瀧波 「あなたの策略に気づいていますよ」というメッセージを出せば、しかけた側は「しまった!」と思う。私、わざわざマウンティングという言葉を広める本を出す意義ってそこにあると思っているんです。もし、この言葉が広まったら、「も〜、マウンティングしないでよ〜(笑)」って朗らかに言えるんですよ。それってすごい効果的なマウンティングブロックだと思うんです。
犬山 グループ内に「この言動はダメだ」という共通認識ができれば、摩擦も減りますよね。(234−35)

マウンティングブロックをすることによって、女性間の「摩擦」が減っていく。「摩擦」が減っていくということは、無駄な劣等感や被害妄想も反省の対象となり自ずと減っていくはず。そうやって、女性間の関係が健全になっていくだけでなく、女性個人も健全になっていく。そしてその先には、相手をマウンティングすることよりも、相手を思いやる気持ちが生まれてくるのが見て取れる。深読みかもしれないが。これを、シスターフッドを目指す言説実践であると言わずしてなんと呼べばよいだろうか。

シスターフッドは手垢にまみれた言葉である。女性がシスターフッドをもっていると主張された当時は、孤軍奮闘していた女性たちは歓喜してそれを迎えたものだった。しかし、しばらくすると、女性がシスターフッドをもっていると言うことは、女性が連帯する性である、そういう本質的なものをもっている、と言うことと同じではないかと批判される。この本質主義が女性を規定してしまい、しまいには女性間にある差異を抑圧するものではないか、と。おりしも、シスターフッドによる女性の連帯を主張したフェミニズムが、実は白人中産階級中心のものであり、そこからは、階級、人種、性的マイノリティ、あるいは障碍をもつ女性が排除されていると批判されていた。シスターフッド受難の時代である。そして、ジュディス・バトラー構築主義宣言により、女というカテゴリーは存在しない。女はアプリオリに存在するのではなく、様々なシステムはもとより、様々な言語・行動実践によって構築されるものなのである、と言挙げされると、シスターフッドの構成員である女とはそもそも存在しないのだから、シスターフッドも存在しない、ということになった。

ところが、このシスターフッドは存在しない、ということが、シスターフッド構築へと一部の女性を駆り立てたのである。存在しないのであれば、構築すればよいではないか。行動・言説実践により、作り上げればよいではないか。このようにバトラーの主張が一回転して、存在しないものを実践により作り出すという契機となった。

私は、瀧波や犬山の気持ちを代弁しようとも思わないし、代弁できるとも思わない。しかし、活字になった二人の対談は、読みようによっては、シスターフッドを遠い先に見据えたものに思える。女性よ、無駄なマウンティングは止して、良好な関係を築こう、そうした方がこの社会では生きやすいよ、と。自分と他の女性を序列関係ではなく、水平な関係に置いてみよう。そこには何か女性にとって良いことがあるかもしれない。二人はそう語っているように見える。シスターフッドはこういうところから作られていく。