吉田秋生「スクールガール・プリンセス」

吉田秋生の「スクールガール・プリンセス」を読む。思春期の少女がもつ承認願望をさらりと描いた秀作。

思春期の少女は本作品の主人公。といっても、読者にそうとは分からない人物に設定されている。

見かけの主人公は、大学卒業後に結婚し、女の子を出産、真面目な夫になんとなく飽き始める専業主婦の角川乃々子。大学卒業後すぐ結婚したので波乱万丈な恋愛関係など全く経験していないし、社会の軋轢に揉まれたこともない。つまり、社会経験なし。夫が大学時代の友人だからか、大学時代の延長に結婚があり、もう何年も同じ日常が繰り返されているようで、そこにけだるさを感じている。

そこに登場するのが夫が勤務する学校の女子生徒らしき人物。庭から乃々子の家の様子を伺っていて、乃々子はなんとなく気にかかる。こんなとき、女の勘はあたるのか、その女子生徒と夫が商店街を楽しそうに歩いている様子を目撃する。女の勘は鋭さをまし、夫を好きな女子生徒がいる、それも可愛いと来ている。もしや二人は恋愛中なのでは、と心配でいてもたってもいられなくなる。夫に問い詰めても、道を聞かれたから案内してあげていただけさ、と取り合ってくれない。乃々子の不安は最高潮に達し、はては、どうしてこんな男と結婚したのか、と後悔するところまでいく。

そんななか、彼女は大学時代を回想し、そもそもどうして夫を好きになったかを思い出す。そういえば、男の同級生はトルコ(←死語)にいったとかなんとかで盛り上がっていたなあ。でも、私はとっても嫌な感じがした、どうしてかわからないけど。と思っていると、夫になる男子学生が、そんな話よせよ、女子もいるじゃないか、と勇気を振り絞って、同級生をたしなめる。ちぇ、話が分からないヤツと思われる覚悟を賭して。そうそう、あれが心にしみたんだった、あれが彼の良さだったんだ、乃々子は夫への愛を再確認する。

始めに愛ありき。そう思うと夫の存在がありがたくなってくる。そばにいてくれてありがとう、感謝もでてくる。

乃々子にこのような変化が起きたころ、例の可愛い女子生徒がまたやってきた。引っ越すそうだ。その挨拶だろう、彼女はこう言った。「私、先生が好きでした。毎朝、ここを通るたびに遠くから見ていました。おくさんがいることも赤ちゃんがいることもみんな知ってました。このこと先生にはないしょにしといてもらえませんか?わたしお2人がとても好きでした」そう言って、彼女はどこかに去っていく。乃々子はこういう女の子っていいなあ、と好感をもつ。
さあ、ここまで書けば、本当の主人公が誰かは明白だろう。そう、娘が成長して、タイムスリップし、過去に戻ってきたのだ。どうして? 女子生徒の姿をした娘は思春期真っ盛りの時を過ごしている。幼いころから見聞き知った価値観は揺らぎ、また新たに入ってくる価値観も揺らぐように迫ってくる。そういうなかで自分を保っていけるのか。自分は何か大きなものにさらわれていかないだろうか。どうすればいいのか。そう悩む時だ。

それで、娘はタイムスリップした。自分がどんな自分であったかを確認するために、両親を通して。そして、始めに愛があったことを知った。そう、私は愛の中で育ったのだ。その事実が、彼女に生きていくための保障のような自己肯定感を与える。これで、私はやっていける。彼女はそう思って、現在に帰っていったのだろう。

幼い頃のことは、私たちにとって経験したことだけれども、記憶に残らないものだ。それでもその経験は私たちの根深いところで息づいている。思春期の一番悩み多きときに、私たちを承認してくれたり、自己肯定感をくれたり、あるいはそれとはかけ離れて、絶望感を与えることだってありうる。私たちはどう生きていくのか、それがどういう経験を子供にさせるのか、そこを少女文化を通して問うのが「スクールガール・プリンセス」である。