内田樹 


内田樹(1)

優等生の挫折の話なんか聞きたくねぇ、それって単なるグチじゃないの? と思うひとは多いようだが、優等生が優等生であることを自爆するかのごとく否定することは、いまだ共感をよぶらしい。否定=解放感という神話がまだ残っているからだと思われる。

映画『スクール・オブ・ロック』(2003年)の根強い人気もその辺りに理由がありそうだ。話は単純明快で、冴えないロッカーが金欲しさに、名門小学校のニセ代理教員になりすまし、子どもたちに勉強ではなくロックを教える。それも一日中。そのうち、優等生だった子どもたちはロック小僧に大変身し、大人顔負けのロックを披露するわ、冴えなかったロッカーも彼らとの交流を通して、夢にまで描いていたロックンロール魂を生きるわ、で落ち着くべきところに映画は着地する。予定調和だからって、何? 痛快そのものじゃないか! というのが、インターネットの情報である。

で、私が注目したのは女の校長先生。みなさんが、今一瞬、想像した通りの先生です。権威を体現し、他の先生にも生徒にも抑圧的で、正論を貫く。でも、やり方がうまくいっていない、という内面の葛藤があり、その葛藤にどう対処していいのやら悩むものの、最終的には正論に寄り添うことで安心感を得る。そんな態度をみんなから煙たがられていて、本人もそれに薄々感づいている、だからさらに正論でもって抑圧する。心から従う者がいようはずもなく、空回りする正論が傍目には哀れな気持ちを起こさせ、果ては観客までもが彼女に対して、「かわいそうに」、と優越感をもってしまう。ひとをそんな気持ちにさせる女校長先生である。

女校長先生に対して、映画の登場人物だけでなく私たちもワルになれる、という図式がこの映画を成立させる。つまり、この映画は、優等生vs反逆児という二項対立は一元性と同じであり、優等生がいて始めて反逆児が誕生する、というからくりを見事に描いているのである。ところが、このからくりが大前提として映画のフレームの外に置いてあるものだから、映画内では二者の対立が固定されることになる。優等生は反逆児より社会的に得するものの、心理状態の方は逆転してしまって、反逆児が優等生より「権威に縛られていない分」解放的に見える。イメージは反逆児の方が断然よく表象されている。二者はとても同じには「見えない」。

女校長先生もこのロジックに嵌っていて、優等生ではないことを示す機会をいつも窺っている。幾度か失敗を重ねるも、最後に、子どもたちのロックンロール(コンテスト)を契機に感情を発散させて、優等生の殻を破る、という大団円で、女校長先生の心は救われる。優等生は救われるにも学習が必要なのである。

それにしても、どうして女校長先生は優等生であることにここまで心を痛めるのだろうか? 権威をもつならそれを思い切り行使すればよいではないか? あのマルクスだって、『ドイツ・イデオロギー』で、支配階級の思想は普遍的思想として表象される、という内容のことを言っている。ならば、支配階級側に立つ彼女が悩む必要などないではないか? 

悩む必要はない、フーコーならそう言ってくれるだろう。彼によれば、「優等生」云々という問題は近代においては不要である。なぜなら、近代人はすべからく優等生であり、私たちは何が善で何が悪であるかという、この社会で生きていくための作法を身につけているからである。ちょっとした逸脱だって、それは社会成立のための必要悪として織り込み済みであり、その逸脱を利用して、心理的に優位に立とうだの、ひいては、ひとを「優等生」と呼ぶだの、そういったことは転倒した考え以外のなにものでもない。

それでは、近代では「優等生」という言葉は批判性をもたないということなのだろうか。そんなことはない。その批判性をもちうるのは唯一、近代社会の外部に立つ者である、というのが彼の意見なのである。

近代社会の外部に立つ者、この問題をフーコー以上に突き詰めて思考したのがジジェクだと私は思う。映画『ソフィの選択』の解釈を通して、彼は、社会の外部に立つことがいかに困難か、しかし同時にいかに倫理的であるか、を説明する。

『ソフィの選択』は、ホロコーストからからくも逃れたある女にまとわりつく倫理的問題を扱う。映画の冒頭で、ユダヤ人ソフィはナチによってひとつの選択を迫られる。彼女は幼い2人の子供を連れていたのだが、その1人は生かしてやろう、どちらを生かしたいか、選択しろ、さもなければ両方とも殺害する、というのである。切迫感と恐怖のなかで、ソフィは男児を選択する。その行為は、もう1人の子どもを見捨てたに等しい。しかし、その時のソフィを誰が責められよう?

だからと言うべきか、その後の人生において、彼女自身が自分を責めてしまい、生きていくことの充実を感じなくなってしまう。なぜなら、彼女は、ナチが押しつけてきた強制的選択を、「私はこちらの子に生きてほしい」という自分の願望におきかえる、いかんともしがたい「罪」を犯したからである。強制を願望におきかえることほど、優等生的な生き方はない。優等生的生き方を否定するには、彼女は自らの願望という名のものとで不可能な選択をすべきだった。彼女は、自らの手で2人の子供を殺すべきだった、たとえ子殺しと罵られ、蔑まれようとも。そうすることで、ナチの世界に入ることを拒むことができたはずだった。しかしながら、この選択が彼女にとって不可能であったがゆえに、苦悩を強いられることとなり、最終的には優等生的生き方のツケを払うために自殺するほかなかったのである。

そうであったかもしれないソフィは近代社会における外部性を表象している。「あなたは優等生である」と言うことができるのはソフィだけである。ところが、そんなソフィは私たちには見えない。倫理的行為は事後的にしかわからないし、また、倫理的人物はそもそも自分が倫理的であることを言葉に載せない。行為が美化や正当化や言い訳に横滑りしてしまう可能性を嫌うからである。いや、そもそも、彼や彼女にとって、倫理的であることの方がその象徴化よりはるかに大切なのかもしれない。にもかかわらず、「優等生」という言葉を吐きさえすれば批判性をもちうる、そういう言説がまかり通っている。

05/02/20の日記に加筆修正

内田樹(2)

最近、優等生の代表としてやり玉にあがるのがフェミニストである。そのためか、教条的だと思われたくないフェミニスト潜在的には相当数いると予想される。フェミニズムが最も語られるのは教室であるが、その外でフェミニストであると言うのは、多分憚られるだろうし、フェミニズム論よりジェンダー論の方が聞こえもよく、実際、多くの大学がジェンダー論というタイトルを使用している。ある言葉に対して多くのひとがここまで敏感になる、という事象は滅多にあることではない。理由は挙げればきりないのだろうが、さしあたり思いついたことを言ってみれば、フェミニストが男女の生き方という、他人にあれこれ指図されたくないことについて語るからだろうか? が、ことはそう単純とも思えない。

ずっと読みたいと思っていた漫画『東京ラブストーリー』が健康ランドの漫画コーナーに置いてあったので、急かす清田に気遣いするふりしながら、一気に読んだ。予想以上に真面目な漫画だった。紫門ふみさん、バブル漫画と勘違いしていました。すみません。

この漫画では、リカとさとみという2人の女が対照的に描かれている。リカは自分の欲望に忠実に生き、一つのことに縛られるのを嫌い、恋愛や結婚や家庭や仕事にあれこれ思い悩む女を尻目に、軽やかに生きていく女として造型されている。型にはまった生き方に反抗する女の典型だろう。一方のさとみは、リカが軽々と超えてしまう問題に悩む女で、あと一歩を踏み出せないどころか、敷居にもたてないガチガチの「優等生」だ。

当然のことながら、話は、どちらの女に感情移入するか、になる。ちょっと意地悪に言えば、どちらの女になった方が人から好ましく見られるか、が感情移入の判断基準になる。アフリカの大草原で子供時代を過ごしたリカと地方で普通の生活しか知らなかったさとみ。どうさとみを擁護しても、多くの読者はリカを選ぶだろう。リカの生き方を自分も実際にやってみる、ではなく、リカの生き方ができたら、そして周りから「かっこいいね!」と言われたら、どんなに心地いいだろう、という気分の問題だからである。

では、実際にリカのように生きてください、となったら、急にさとみ派が増えるのは確実である。リカの生き方はとにかくしんどいのである。

こういった、リカになったつもり、のひとに対してなのか、紫門ふみは微妙な細工を施している。さとみが実はリカに劣らぬ反抗心の持ち主だとして、リカとバッティングさせたのである。さとみはマグマのような反抗心を抑えられないほど、それほどに反抗的な女だった。では、彼女はどうやって「優等生」と呼ばれるに至ったのだろうか?

彼女が「優等生」と呼ばれ始めたのは高校時代。高校生のさとみは、クラスで問題が起きた際、その問題の当事者である生徒をたった一人で擁護する、という場面に立たされる。というか、表に立つことで、そういう場面を作った。さとみにとって、問題は解決すべきものであり、そのため渦中に身を投じ、解決のため他の生徒たちの態度も同時に批判する。

と言えば、聞こえはいいが、実際、他の生徒を敵にまわすがごとくに批判するときのさとみの心中は計り知れないほど、不安だったはずである。出てくるひとつひとつの言葉が、自分を孤立させるものと変容するかもしれないからである。総スカンを受けるのを嫌って、「そうね、私にそんなこと言う権利があるわけではないし、私も間違っているかも知れないけど」と軟化とはいわないまでも心の揺らぎを見せれば、受け入れられる可能性もある。「私もみんなと同じように悩んでいるのよ」と言葉にすれば、批判する者が上に立つことで出来上がる上下関係もなくなり、みんなと仲良く問題に対処できる。

しかし一方で、ひとに媚びうることで問題が解決するのかという疑問も湧いてくる。そもそも、問題が解決しそうになかったから、さとみは意を決して立ち上がったのだし、当事者の生徒にしてみれば、そういう態度はその生徒をさらに孤立させるものでしかない。最終的には、さとみが媚びず「みんな間違っている」と批判したために、それが「優等生」的振る舞いであると揶揄された。ひとの悪口で成立する見せかけの仲良しクラスという「場」を変えようとする態度は、正論を振りかざす「優等生」という言葉に置き換えられ、そうやって他の生徒はさとみに対して心理的優位に立ったのである。もちろん、他の生徒がさとみに反抗したので「場」は安泰となる。残ったのは、愚直なまでに問題解決型の女、それもそのことで損をする女であり、紫門ふみはそんな女を切り捨てられるのか、と描いたのである。

ところが時代は問題解決型女を「優等生」と一括りにして葬りさる方向に向かっている。その後の『東京ラブストーリー』TV版では「優等生」への過程を配慮する意識が抑えられたため、さとみは有森也美の好演をもって本当にダサくて退屈な「優等生」になってしまった。相乗効果として、一方のリカは颯爽とした女となり、心理学者小倉千加子をして、リカを選択しなかったカンチこそ不幸である、と言わしめた程だ。問題解決型女が消え去ることで、残ったのが「優等生の女」と「型にはまらない女」という女のジェンダーである。「型にはまらない女」は「優等生の女」がいるからこそいつまでも出てくるし、彼女は「型にはまらない」からこそ「私探し」という可能性の永遠の先送りという蟻地獄に入っていく。では、「優等生の女」はどこへ向かうのだろうか?

05/02/20の日記に加筆修正

内田樹(3)

最近のブログで原稿依頼の殺到に素直に喜んでいる内田樹が、アンチ・フェミニズム宣言で、フェミニストに対して「優等生」バッシングしたのも時代の趨勢というべきだろう。彼いわく、
「私は「正義の人」が嫌いである。「正義の人」はすぐに怒る。「正義の人」の怒りは私憤ではなく、公憤であるから、歯止めなく「正義の人」は怒る。「正義の人」は他人の批判を受け入れない。「正義の人」を批判するということは、ただちに「批判者」が無知であり、場合によっては邪悪であることのあかしである。・・・私が出会った「正義の人」が、フェミニストたちであった。(『ためらいの倫理学』)
「正義の人」を「優等生」に変えても彼の意図は十分伝わる。彼は、左翼の歴史と重ねてフェミニズムを批判するが、彼の神経を逆撫でしたのは、フェミニストが「自分が間違っている可能性を吟味する」能力を優先的に開発しようとしないからであり、彼女たちが最優先するのは、「自分の正しさを主張する」能力の開発である、ということらしい。従って、彼女たちには、「自分は間違っているかもしれない」と考えることの出来る知性がない。知性がない、ですよ、みなさん。
ということは、内田は「自分は間違っている可能性を吟味」する、いわば弁証法的思考を持ち合わせているということになる。弁証法的思考をよいことだとすれば、それを不幸にも持ち合わせていないフェミニストは、主張するだけの、性差別被害の意識ばかりが先行する思考者たちである。と、内田は一方的に「正義の人」を責める。
つまり、内田のフェミニズム批判もまた、内田が一方的に正しいという「オヤジ」モードなのだ、という名指しされたフェミニスト側からの批判も可能となる。堂々巡りの批判というからくりが内田のフェミニズム批判に潜んでいる。だから、彼が何を言おうとも結局のところ議論は最初に戻る。「場」は変化しない。「正義の人」に対して心理的優位に立っただけである。
もっとも、ここでやり玉にあがっている「正義の人」の態度は確かに対話が成立しがたいという点においては批判すべきなのかもしれない。内田の指摘はその意味で傾聴に値する。ひとに何かを伝えようとするなら、そのための話術を学習する必要がある。ついでに、内田が勧めるところの(媚びるための)ファッションや物腰も。女のジェンダーには幅があり、そのなかでうまい落としどころを選択するのも大切なことだ。特に、教室や著述などでは、受け手からうんざりされないくらいの何かが必要となる。この「何か」は、例えば、知を持つ者と持たない者との非対称性をどう扱うかという問題にもつながるが、ここではこの問題は扱わない。
しかし同時に、「正義の人」の態度は利害対決の大勝負のときには欠かせない態度でもある。はっきりと物を言わなければならない時がある。それは、端的に言えば、「はい」か「いいえ」の世界である。
例をあげれば、数年前名古屋でパレスチナ問題のシンポジウムが開かれたとき、中東専門家として招かれた京都大学教員の岡真理は学者としてのアイデンティティを致命的にまで露呈した。伝聞であるが、彼女の話は終始、「こういう事実がマスコミ報道などでも伝わっていない」ということだった。そんなこと誰でも分かっている。マスコミを100%信用する人間などいない。そこで出てきた質問が「では、あなたがブッシュだったらパレスチナ政策をどうしますか」であった。ところが、雄弁だったはずの彼女は、急にあれやこれやと曖昧な方向に話を向けたらしい。彼女は自分が「間違っている可能性を吟味」していたのだろうか?
内田の「正義の人」批判は、フェミニズムの性差別是正を目指すという出自を見ようとしない。彼が注視するのは、出自が今や多くのひとに認識されているなか、にもかかわらず、ところかまわず念仏のように問題解決を唸り、一番大切なときにはお茶を濁す、ということの反復が多くなってきた、という経緯のみである。その結果、彼は、フェミニズムを当初の問題解決型から女のジェンダー選択型へとシフトさせてしまった。
こういった巧妙な手法でフェミニズムの性格転換を図ろうとするのは内田に限ったことではない。時代そのものがその方向に流れており、明らかに問題解決型フェミニズムは分が悪い。では、「優等生」フェミニズムはどうしたらいいのだろうか? 
フェミニズムに共感を寄せるひとは、それならそれで時代に乗ってしまえば、と言うかもしれない。斉藤美奈子風に言えば、ここまでフェミニズムが嫌われ者になったら「物は言いよう」ではありませんか? 北田暁大にならって学術風に言えば、「左、右のイデオロギー対決の構造が消失した時代に、そうした正義への語り口、形式への違和が迫り出してくる。形式の倫理を問う、思想なき時代のあらたなメタ思想です」(『論座』05/03)。北田に言わせれば、すでにフェミニズムは「学級委員長的価値」に映っており、テレビでの「ぎゃあぎゃあわめくオバサン」というイメージは消しがたくあり、それを間違いとも言っておれまい。「語り口、形式こそが現代の政治的争点となっているわけですから。」なるほど。
ジェンダー選択型フェミニズムの肝となるのは、女のジェンダーという長いものさしのどこに自分の居場所を決めるかという点である。性差別是正問題が「消失」したのであれば。女のジェンダーものさしのどこに身を置くかが「政治的争点」だ、ということだが、これはこれで結構困難な問題でもある。もちろん、「優等生」フェミニストは避けるという前提はクリアできる。でも、私の顔はこんな風だから、どのあたりが無難なのか。もしかして、ここに身を置けば、こういう問題に巻き込まれるのか。負け犬を選択したら、結婚子持ちとシングル紛争の波をかぶってしまうことになる。だから、負け犬からちょっとずらすべきなのか。でも、どういう風にずらせばいいのか?
それに応えてくれるのが小説であり、エッセイであり、ジェンダー論である。女のジェンダーのどの色合いを「正しく」選択するかによって、よりよい「場」を確保することができるし、またその「場」を占めた時の問題がある程度は予測できるようになっている。失敗すれば、叩かれたり笑われたりするし、最悪の場合差別を再生産しかねないので、慎重に微調整しなければいけない。みんな優等生であるのに、あえて「優等生」を選択するのは自ら墓穴を掘るようなものである。しかし同時に、本当に熟慮して選択していかないと、あるいは「正しい」選択をたとえできたと思っていても、事がうまくいかないこともある。ジェンダー選択型フェミニズムもまた、厳しい局面に立たされている。
だったら、フェミニズムは当初の問題解決型に戻ればいいのか、という単純な話ではない。フェミニズムジェンダー・ショッピングと化した今、この消費を迂回してはフェミニズムは成立しない。
「優等生」と形容される私が「優等生」に居直れないのは以上のような事情による。

05/02/20の日記に加筆修正