竹村和子と冬ソナチアン


竹村和子と冬ソナファンは似ている、と最近、妙に気になりだした。正確に言うと、彼女の『愛について』(2002年)の心やさしく思える箇所と冬ソナファン同士の交流のあり方が、大義も言葉遣いも違うのに、同じように響いてくる。一方はフェミニズムの大御所でお茶の水女子大学教員、かたや「おばさん」丸出しとして軽蔑とは言わないまでも悪意がちらつく好奇心の対象であり、肩身が狭いとも言えなくない冬ソナファン。竹村は異性愛主義を批判、冬ソナファンはヨン様をこよなく慕う。

もっとも、同書の発行、ドラマ放送開始(KBS)は2002年と同時であり(竹村は岩波の『思想』にそれ以前より連載していたので同時と言えないのだが、『思想』は読む人も限られているのでそこは目をつぶっておきたい)、それを考慮すれば、このような偶然が、実は必然であり、ひとりとその他多くが、立場こそ違えど手に手を取り合って、同種の時代感性とでもいうべきものにのまれながらもそれを作り上げていく、という仮説が成立しないでもない。

『愛について』の主張は一貫している。私たちのセクシュアリティ(性行動や性対象選択や性にまつわるファンタジー等)は、過去の性言説や性行動等が重層化されつつ変化し、なおかつ政治社会体制に修正、利用され、ときには解放言説との幸運でありながら不幸な出会いもし、という複雑な場にあり、その複雑性がまた性差別を固定化する働きをしてきたのみならず、セクシュアリティは「自然」なものという見方が大勢であるからこそ、自然なら言葉は不必要じゃないかという理由で、それは「語りえぬもの」(3)としても存在してきた。だから、「語」られず、「語」る言葉を持たぬひとびともずっと存在してきた。これら三重の、しかも折り重なった困難な問題と見えるものの顕在化、政治化が同書の目的であり、『愛について』は、自らの政治性を発揮するにあたって、この「秘匿」(3)された問題を、[ヘテロ]セクシズムと呼ぶことにする、と宣言する。竹村曰く、

わたしは性対象による差別、すなわち異性愛を規範とみなす異性愛主義(ヘテロセクシズム)は、男女差別(セクシズム)と不可分な関係にある抑圧構造だと捉えて、それを[ヘテロ]セクシズムと呼ぶことにした。(3〜4)

で、同書が議論をどう展開していくかというと(今更ながら基本的おさらいで、また竹村の生物学的還元論批判も凡庸な説明しかできずに申し訳なく)・・・。男が女を好きになるのを、自然な行為と説明するには無理がある。異性愛においてその対象選択の裏には諸々の制度が影響を与えているからである。例えば、男のペニスという凸と女のヴァギナの凹の合体が自然なセックスに見える私たちの認識は、性と性対象とセクシュアリティが生物学的に、生殖的見地から、他動詞的に、既に決定されているという見方に毒されており、そこから漏れるものと漏れるひとびとを知らぬ間に排除する方向にはたらく。排除の上に自然があるということである。また、このような生物学的認識にもとづくセクシュアリティが正しいセクシュアリティのあり方だとされるなら、大元の生物学にそぐわない行動や見解や言説は間違っていることになる。わがままや逸脱等々のことである。しかしそれこそが、性差別以外のなにものでもない。そもそも特権的指標とされる生物学が真理であるという証拠はどこにあるのか。生物学にしたって、実のところ・・・という風に、異性愛主義と男女差別は「不可分な関係」にあるとし、竹村はその関係を丁寧かつ緻密に辿っていく。

ところで、こう議論する竹村の手法は、アメリカの一流大学大学院生、なかでも学者になれそうなくらい有望な大学院生が用いる手法となんら変わりないことは、誰の目にも明らかで、これまでの学問の蓄積(というか影響力のある論文、著書)を多角的に吟味していって、かつ寄り添えそうな学者の意見を軸にして、最後に持論を述べる、というものであるからにして、彼女の議論の過程が知りたければ、学者になりたければ、留学できなければ、同書を読まれたし。これは、彼女を批判しているのでもなければ、嫌みを言っているのでもない。彼女のように、的確な表現を選びつつ隙のない論を展開するフェミニズムが日本には少ないように私には思われ、多様な方法での議論の展開を望む立場としては、彼女は評価されるべきである、と思っている。そこは誤解のないようにしておきたい。

私が興味をそそられるのは、彼女の的確で隙のない論とは裏腹に、そのような議論方法にそぐわないような箇所が同書にあるという事実である。それが先に述べた心やさしいと同時に表現も易しい箇所なのである。スミス=ローゼンバーグ(アメリカの歴史学者)の19世紀の女性史研究をもとにした箇所、「女同士が・・・熱烈な手紙を交換」し、「女同士の絆」があり、「新婚旅行に女の友人を伴ったり、結婚後に同居することすらあった」(47)。リリアン・ヘルマンからの引用「とても親しく・・・友達のように愛していて」、仲良く「夜、映画を一緒に見にいったり、ときには夜、一緒に本を読んだり、お茶を飲む」(65)。当時、女の性欲は「希薄」(47)とされていたから、女同士のこのような行為が許容されたのだろうが、このラインで思考していくと、女が女の乳房に触れたり、彼女の豊満な臀部に頬をよせるだけで、快感がもてる。女に限らずともよい。男とでも、肌をくっつけ合ったり、じゃれ合ったりするだけでも快感がもてる、セックスなんかしなくても。もちろん、お茶だけでも、一緒にテレビを見るだけでも気持ちよくなれるであろう。このような、性器を中心に構造化されない快楽(85)は確かに心地よい、と私は深く納得するのである。

もちろん、竹村は周到にこの快楽が根無し草の快楽ではなく、[ヘテロ]セクシズムという歴史的文脈に規定されている事実を無視できるものではない(87)と警鐘をならしている。この快楽は一人歩きしているのではなく、[ヘテロ]セクシズムからの解放へ向かいながらもそれに利用されるものであるかもしれない、ということだろう。それを重々承知で、竹村さん、あなたも本当のところ何もかも忘れてこの快楽に身を委ねたいのでは、と言いたくなるほど、今の世の中、脱性器的快楽への関心が高まっているのもまた事実なのである。冬ソナファンはその「何もかも忘れて」しまった一例である。

彼女たちは仲良くコミュニケートする。ぺ・ヨンジュンのグッズを買うときも「高いわね〜」と主婦感覚をついもらしながらも「でも素敵ね」と互いに微笑み合っている(松坂屋のイベントで目撃)。ペ・ヨンジュン公式サイトの昔の掲示板をのぞいても(現在の掲示板は登録しないと入れない)、書き捨てコメントや荒れたコメントは皆無といっていい。もちろんエッチなコメントは多分ない(と思う)。林香里著『「冬ソナ」にハマった私たち』(2005年)では、冬ソナファンの声が多く掲載されているが、ペ・ヨンジュンとのセックスなぞ想像の範囲外。彼を見るだけで、『冬ソナ』を見るだけで、快楽を覚えているひとが多いのである。「私ももう一度生まれかわって、人を愛したいと思います。」「自分の身体の中からどんどん生気が甦り、若さを取り戻し、心癒され、幸せな気分になれる。これぞ秘薬が一面にちりばめられた魔法のドラマ」(帯からの引用)。前者は60代の、後者は70代の女性。こんなちょっと恥ずかしい言葉を臆面もなく、しかし蕩々と雄弁に語り、それを他のファンと共有できること自体、快楽のまっただ中にいることの証しではなかろうか?「枯れかかった心が潤うのです。」なんの葛藤も緊張もない「乙女の心境」(48歳、帯より)なのである。

脱性器的快楽に心躍らせるのは竹村や冬ソナファンだけではない。作家山本文緒もそれにハマっている。小倉千加子との対談(『シュレーディンガーの猫』2005年)では、小倉がどこかの講義で話した脱性器的快楽の別名とも言っていい「前駆快感」に感動しまくり、「これまで自分が感じていたことに言葉を与えられようで、大変衝撃」(206)を受けました! と興奮気味に語っている。そういう彼女に対して、小倉は、この「前駆快感」は「普遍的でベーシックな、生涯続くかなり高等な快感だと考えているんです」(207)、とまで力説する。

かように、世の中は、というより、世の中の女たちは、いたく脱性器的快楽に魅せられている。その気持ちはよく分かる。その流れに身を任せたい、とも思う。しかし、快楽とはそもそも何だったのかを考えると、どこかでいつかは踏みとどまる必要がある、とも私は思うのである。

赤ちゃんがミルクを飲んでいるときのうっとりした状態、それが快楽の源である。欲しいものはいつでもどこででも自由に享受できる。欲しいものが与えられないことからくる不安や、制限されなければならない不自由などはない。欲しいものを与えてくれるそのひとは、赤ちゃんのむさぼるような快楽の追求の邪魔をしないと想定されるのである。だから、快楽は不安や葛藤や緊張の少ない状態のことを意味する。

とすれば、気持ちがいいときには、他人が存在しないことになる。他人は存在しても、それは姿を変えた自分に他ならないということだ。「私」の望みを知っているのは「私」だけなのだから。「私」が気持ちよければ、欲しいものを与えてくれる「あなた」も気持ちがいいのである。その「あなた」が「私」の延長線上にいることは間違いない。

以前、私のことを心配してくださる方がいて、「女の友人をつくりなさい、心が楽になるわよ」とアドバイスを頂いた。そのときは、本当に女の友情があれば、どれほどに生きやすくなるだろうか、と一人ため息を何回ももらした。この心のわだかまりを理解してくれたら、あんなことも一緒にできたら、男になんかこんな気持ち分かるはずがない、と。

しかし、そう願う私は相手の立場や感情を思いやっているのだろうか、という疑念も同時に起きた。心のわだかまりと言えば聞こえはいいが、それは普通に言えば愚痴のおしつけであり、それをやさしく受け止めてくれるだろうという思いは、相手の好意を先取りしているにすぎない。彼女が私を癒してくれるのを、私の愚痴の尻ぬぐいをしてくれるのを期待する。それも「愛」という名のもと無償に。こういった一方通行のコミュニケーションに、相手を尊敬する社会的品格はない。脱性器的快楽が全面的にそうだというわけではない。ひとに頼ることも必要なことだってある。ただ、映画『ピノキオ』(1940年)のプレジャー・アイランドに行きたくなければ、快楽を追求しすぎてロバになりたくなければ、私たちは、ときに「快感を社会的品格とひきかえにしなければ」(フロイト精神分析入門』259)ならないのである。