森岡正博


先日、TBSの「ニュース23」で筑紫哲也渡辺恒雄が二夜連続で対談していた。タカ派と見られていたナベツネが、急に小泉の靖国参拝に疑義をはさむような論説を発表したので、なんか「変」ではないか、というのが対談の理由。ナベツネによると、これは転向なんかではなく、戦争を知っている者として、現代の日本政治が戦時に見られた独裁体制に暴走していくのを食い止めなければ、という憂国の情であるらしい。もっとも、読売や球団運営での自らの独裁に対しては無知を装っている。世間では、こういう姿勢を指して、自分を「棚上げ」すると呼ぶ。

最近の言説に広く見られるのは、この自分を棚上げする言説への不信感である。裏を返せば、自分を棚上げしない言説には多くの支持が寄せられている。林真理子中村うさぎなどの女のエッセイストはもとからその傾向が強いが、男にもそれを全面に押し出す文筆家が登場してきている。小谷野敦を筆頭に仲正昌樹長山靖生等々。そして、その頂点にいるかも、と思わせてくれるのが、森岡正博と彼の著書『感じない男』(2005年)である。

『感じない男』の帯には「自分を棚上げせず禁断のテーマ(注:男として感じない、制服フェチ、ロリコン趣味のこと)に果敢に挑む、衝撃のセクシュアリティ論」と書いてあり、著者紹介にも「生命学・哲学・科学論をテーマとし、人文諸学を大胆に横断しつつ、自らを棚上げすることなく思考を展開している」とある。本のなかでも、私は大学教員でありながらもあえて世間では恥ずかしいと思われているロリコン趣味を告白するのだ(つまり安全な場に居直らないことだと思うが)とか、どうか読者も自らを棚上げすることなく正直に自分のセクシュアリティに向かい合ってほしい、という趣旨の発言が幾度となく出てくる。

棚上げしない、とはあっぱれである。多くのひとはなかなかそこまでいけない。なぜかと言うと、何を棚上げするのかしないのか、を選択しなければならないし、棚上げしないと公言して憚らないとしても、どこまでその棚上げしない度が深いのか、つまり、真の正直はどこにあるのか、に悩まざるを得ないからである。

棚卸しを始めると、とどまることがない。あれを棚卸しするならこれも棚卸せねばとなり、実際その通りの道を辿ったメンヘル言説は、棚卸しの垂れ流し状態である。セクシュアリティ論の棚卸しも、今はわずかしかないから貴重価値があるが、いずれメンヘルと同じ道を辿ることだろう。淘汰も行われ、芸のある言説は生き残り、ナルシシズムに浸る言説は早々に捨てられる運命になろうと思われる(ナルシシズム言説も芸があれば延命可能ではある)。

棚卸し言説が閉じない言説である、とは精神分析の知見によるものである。棚卸ししようとする「私」は、実は先験的にあるものではなく、他人からもらったものである。ごく小さいときに(自分の指が自分の指であるということが分からないときに)、他人が捉えてくれている自分の像というモノを、私が「私」として認識するのである。だから、思考するのは起源がモノである「私」であり、そうなると、実際の私とモノとしての「私」の乖離が必然的に生まれてしまうように思える。モノとしての「私」が棚卸ししようとも、もともと他人のモノである「私」の限界を知りようもないし、さらに思考しているのがモノである「私」ならば、実際の私はさらにつかみどころがない存在になってしまうからである。しかしそう思いながら、ひょんなことで、実際の私に立ち会ってしまうときがあるとすれば、逆説的にそのときが、乖離しているように見えたものが繋がる瞬間でもある。後でも述べるが、この瞬間を無視することが、棚卸し言説であり、その意味で棚卸し言説は私探し言説の亜種であろうと思われる。

だからといって、自分を棚上げしないことが、善い悪いと追求したり、時代の特徴と言いたいわけではないし、褒めたり貶したりしたいのでもない。本当はもっと棚上げしているものがあるだろうが! 正直に物言え! という気持ちにもさらさなれない。『感じない男』では、大学教員森岡が自らのセクシュアリティを告白する。今後学生から胡散臭い目で見られるのは覚悟の上である。もっとも大学辞職に追い込まれる圧力はかからないだろうから安全ではある。自分をさらす勇気を発揮するのが自由な場だからできるのか、自由な場であっても自分をさらすというリスキーな選択をするのか、それとも彼ならどの立場に身を置こうともチャレンジするのか、どう読むかは読者の自由である。そこに、私の関心は今日はない。

それよりも、森岡が自らのセクシュアリティを解体解説していく手法に関心がある。一言で言えば、森岡は矛盾を嫌う。嫌うから、矛盾を避ける、あるいは矛盾を解きほぐす手法を用いる。射精についての議論がそうである。森岡は射精議論の基盤に二元論を置く。それによれば、射精は生理的面と精神的面の両方を兼ね備えている。生理的面から言えば、「精子が溜まるというのは間違っている」そうで、「使われなかった精子は、自然に分解されて、体のなかに吸収されてしまう」(46)。吸収されたとしても、精子の製造は「性ホルモンや生理物質の血中濃度などがかかわっている」(46)らしいので、溜まっていくことは間違いなく、そうであるならば、体に吸収されるか、射精して「抜く」という方法しかない、と述べている。そして、生理的面の解説はそこまでで、その次に射精を可能にするというか要請する精神的面を自分の経験を交えて誠実に解説していくのである。生理的面と精神的面への二分割、それが私は気になってしょうがない。

先の「私」の議論に戻って考えてみると、二元論はそう簡単には成立しないのである。モノの「私」が思考するものは際限なく拡大傾向にあるが、その「私」は、偶然に実際の私に立ち会うときがあるのである。モノの「私」が何ともコントロールしがたい実際の私に。ちょうど森岡が夢精はコントロールできないと語ったように。実際の私には、しかしながら、そもそもモノの「私」が思考しなければ立ち会えない。思考は際限がないと思っていないとコントロールできないという限界を感知できないのである。これは、矛盾にも似て、ドアを開けたと思ったらドアが閉まっていた、という限界の固い岩にぶち当たるような感覚である。

この繋がりが、射精、とりわけ射精をする器官であるペニス(正確にはファラス)にも言える、とジジェクは述べている(と私は読んでいる)。ジジェクヘーゲルの例を出して、「放尿(森岡の言葉では射精)という最も低級で最も低俗な機能が、生殖という最も崇高な機能へと移行する」(『イデオロギーへの崇高な対象』333)と言うとき、相反するものが一点に統一されることが、私の議論では、モノの「私」による自由な思考が限界にぶち当たる瞬間が、とりもなおさず、逆説的に自由な思考の原点になる、と思う。限界がなければ自由ということは生まれないと思うからだ。だから、この点を避けてセクシュアリティを議論していると思える『感じない男』は、誠実な自己語りで学ぶ点も多々あるが、一読者としてはのぞき見をして楽しんでいるような気もする。議論がどちらかと言えば平板で、セクシュアリティの豊かさ――貧困や陳腐や複雑等々――が伝わってこないような思いである。

反論もあろう。森岡は「感じない」自分という限界を認識したうえでセクシュアリティの思考に「移行」しているではないかと。そうなのかもしれない。しかし、森岡が、自らの制服フェチやロリコン趣味について思考・錯誤する最終目的がそういった限界の克服にあるように議論している限り、セクシュアリティの豊かさにはふれえない。なぜなら、「感じない」自分という限界があって始めて、制服フェチやロリコン趣味、そしてさらに別のものに、といったセクシュアリティの豊かさに接続する精神生活をもてるからである。