住金の彼か彼女


ベストセラー三浦展著『下流社会』(2005年)を読む。社会が一億総中流状態から、上流と下流に分化しつつあり、具合悪いことに下流が多数派を占める趨勢である、ということをデータの素直な読み取りによって議論した本である。一時期この多数派は、「年収300万円」で生活できる階層としてエコノミスト森永卓郎が持ち上げていた階層だが、多分、森永の頭にあったのは、「上流」は数にして極僅かなのだから、あれこれいらぬ足掻きするよりも、身の丈にあってそれでいて心地よい生活ができれば、それでいいのだし、それが生きる術よ、ということであったと思う。もちろん、「上流」という「社会豪華一点主義」(©清田友則)が多数派の年収減少分を吸い上げていて、文化だけはいっぱしに自分らが発信地だとして都合良く「トリックルダウン」方式を臭わせていたことは、「上流」である森永自身の秘密として伏せおかれていた。

三浦は、分かりやすいデータ分析のお陰で森永のような秘密をもたずに済んだ。風通しが良くなった分、森永が現状に満足せよという暗黙のトップダウン型メッセージを発していたとすれば、三浦は現状に甘んぜずば、上流を目指すことも可能、というマニュアルをてらいなく書くことが出来たように思う。例えば、三浦は、「下流」のライフスタイルには一定の様式があると指摘する。彼らは、「歌い踊る」(カラオケに言ったり楽器を演奏したりダンスしたりすること)のが好きである。その核にあるのが「自分らしさ。」あくせく金のために働かず、毎日をスローに過ごし、自分のしたいことをやっていけたらそれでオーケイという世界である。貴族のような生活をしているという意識をもてたらそれが「下流」ということのようであるが、貴族のような生活は早晩、腐れ臭ってくるのが常であり、実際、「下流」は「自分らしさが重要と言いながら、努力もせずにぶらぶらしている中途半端な人間」(p263)であるらしい。となると、「下流」のライフスタイルを変えれば、もしかして、という希望もなきにしもあらず。そこで、三田紀房著『ドラゴン桜』(2004年)にリンクが貼られ、意識革命へと読者を誘う、これが『下流社会』である。

それにしても、「自分らしさ」という概念は地に落ちたものである。一昔前までは、「自分らしさ」を強調することが、文化活性に寄与し、ひいては政治経済的に見ても生産的であるように煽れていた。「自分らしさ」なんて恐れ多いと思っていた自虐思考の私にとって、少数派であった「自分」さんたちが肩で風を切るように闊歩するのを見て、そして私のような優等生に向かって、なにやら軽蔑の眼差しを送っていたように感じられたのがまるでうそのようである。何事も大衆化されていくと、毀誉褒貶にさらされる。だからといって、私のような者が勝ち誇った気分になれるかといえば、そこは留保がつく。なぜかというと、この大衆化が始まるやいなや、やたらそれが現象としてクローズアップされるか、ジェンダーという観点で語られ始められるか、当事者学として東大の赤門を入っていくか(上野千鶴子は今期「当事者学」について講義しているらしく)、あるいは矯正の対象になっていき、「自分らしさ」市場が生まれるからである。

市場社会にどっぷり浸かるのは、ある面、非常に気持ちがいい。トレンドを軸に、製品化し、広告し、販売し、そして消費する。今は消費社会だから、消費するのが最も気持ちいい。気持ちいいのは当然である。市場は全てが等価交換の世界だからであり、等価交換である限りほころびが出たり、問題が生じたりするはずがない。いや、市場にはひとつだけ特殊な商品があって(=労働力)、それが市場の等価交換原則を成立させると同時に脱構築する云々・・・という議論をしたとしても、実際、消費しているときそれを意識しているかは疑問であり、その特殊な商品のために消費行動の歯車が狂いだしてくる、という話もあまり聞かない。

だとすれば、市場社会は天国ではないか、という話になってくるが、それは明らかに間違いである。消費するとき、私たちはいつも消費しすぎるか、消費し足りなかったか、のどちらかであり、消費行動と意識がどうしても一致しない。もう少し踏み込んで言えば、大量に消費すればするほど気持ちも高まろうものだが、実際には、罪悪感を覚えてしまうのが私たち消費者なのである。罪の意識をもたせる天国なんて、天国じゃない。
「自分らしさ」市場に対しても同様のことが言えるのではないかと思う。少なくとも私は、それに触れれば触れるほど罪悪感を覚えてしまう。だから、諸手を挙げて歓迎できないのである。罪悪感とは、何か取り返しのつかないことをしてしまったという意識を前提にする。私にとって最も大切なものがあるのに、それよりも別の方を選択してしまったという罪の意識である。ジジェクに言わせれば、私は私の欲望に妥協してしまったという意識になろう。この罪の意識を喰らうのが超自我と呼ばれるものであり、それは私が私の欲望に妥協すればするほど喜ぶ。そして、超自我がエネルギー源を確保し活動的になればなるほど、罪悪感も大きくなってしまわざるを得ないという仕組みになっている。

では、私にとって大切なものとは何か、それを裏切ってまで選択したものは何か、ということが問題になる。答えは他ならぬ「自分らしさ」市場にある。「自分らしさ」というからには、他人を前提としていなければならず、他人を前提としていること自体が、既に自分と他人という人間関係が成立していることを示している。ひきこもりであろうが闊達な女であろうが人間関係からは抜け出せないということだ。こう考えると、「自分らしさ」は、すなわち人間関係であり、となれば、私たちが日々この関係に住んでいることそのものを指す。

だったら、私は、日々の生活において、どこかで、誰かと、原因がなんであれ、ぶつかっていくことをやってみたい。これまで、一定の距離を置いて、自分が傷つかぬようにしてきたから、そういうことをやってみたい。今はその気持ちはこれまでになく強い。なのに、それをせずして、どうして市場が提供する「自分らしさ」学に触れてしまうのか。どうして、「コミュニケーション能力が高いか低いかが、若者に勝ち組、負け組意識を植え付ける」(p175)と言う精神科医斎藤環を引用する『下流社会』を読んでしまい、ちょっと何かを学んだ気になるのか。そしてこれが最も肝要なことだが、どうして私も自ら「自分らしさ」市場に参入しようとするのか。このように「自分らしさ」市場が⁄を活性化していけばいくほど、罪悪感は募る一方である。超自我が罪悪感を煽るので、私は私の欲望を妥協することに快楽を覚える始末である。そうやって、私の自我は硬直したままにある。
だから、私は、読書したり、文章書いたりする度に、罪悪感を覚える。何もやっていないではないかと強く思う。世の中には、何かをやっているひとがいるというのに。身も知らぬひとに対して私は罪悪感をもつ。

今年5月20日の日記は、私が超自我の命令に従った上で書かれたものである。「住金女性差別」問題についての日記である。

「3月28日、大阪地裁は、住友金属工業が「女性であることを理由に昇級や昇進で差別」を行ったと認定した(朝日新聞3/29)。原告勝訴である。他の住友関連企業(住友電工)も同様の女性差別問題を起こしており、こちらは04年の1月に和解が成立している。2つの訴訟は同じ問題を抱えていた。均等法施行前の性差別的な雇用管理に対して法的措置をとれるのか、もしとれるとすれば、「公序良俗」を根拠として性差別を問うことになるが、それが司法にできるのか、ということである。結果は、1年前の住電の場合は「公序良俗」に反しているとはいえないという判断が下され、今年の住金では「公序良俗」に反していることが認められた。両裁判とも同じ大阪地裁。一体1年で何が起きたのだろうか。

種明かしをすれば、今年の住金裁判では内部協力者が出たらしいということである。女性を差別する「闇の人事制度」が存在していたのであり、そのことを証明する内部文書が密かに弁護団に届けられたのである。私はこの点に強く惹きつけられた。多分匿名者であろうこの人物にこの行為をさせたのは何だったのだろうかと。

同じ頃『週間朝日』でコラム連載をしている小倉千加子が「匿名の善意」について書いていた。取り上げられたエピソードは、サラリーマン2人が駅構内の線路に落ちた人を助けたというもの。2人は、助けた後名前も告げずに去っていったらしく、その爽快さは日本映画でいえば椿三十郎、ハリウッド映画でいえばクリント・イーストウッドのそれにも比肩する。小倉はこの匿名の善意を評価し、それは都会においてのみ可能だと力説していた。ちなみに、都会はテクノロジーの産物としての都会ではなく、人間関係がさほど束縛感をもたない場を指しており、同様に田舎も田畑が多いカントリーサイドを意味しておらず、濃い人間関係で人も物事も絡み取られている場のことをいうらしい。縁が濃ければ、善意をしても人間関係によるある種の「いじめ」を受けるかもしれないので、人はなかなか善意に踏み切れないのだ、という論理である。

であれば、善意は駅構内、バスや飛行機の中、デパートや地下街でしか行われないことになる。私たちがコミットする職場や家庭では善意は発揮されない、小倉の論理でいけば。しかし、私の論理でいけば、コミットしてその結果どうしようもなくタイトな人間関係ができている職場や家庭で、善意が発揮されえないとすると、善意を語る重要性がどこにあるのか、ということになる。まるで他人事ではないか。

住金の内部協力者は善意をした。彼か彼女の行為は、フェミニスト小倉の論理の矛盾をつく。フェミニズムを説きながら、家庭での善意の可能性を閉じる論法に真っ向から対立する。私は彼か彼女の行為を映画『ライフ・オブ・デヴィッド・ゲイル』(2003年)の台詞を借りて、「一瞬の誠意」と呼びたい。不正を問う女たちと欺瞞にまみれた会社で生計を成り立たせている自分、それぞれに対する「一瞬の誠意」である。そのときが「一瞬」であるのは、そのときがもう二度とやって来ないからである。その行為が「誠意」であるのは、彼か彼女が協力によって社会的に損することはあっても得することは無いに等しいのに、理想という誠をもって生きようとしたからである。これが善意でなくて何であろうか。

以上のようなことをつらつら考えていて、私自身も他人事のように書いている気がして、書く気が起こらなかったのである。」
欲望が超自我に引き裂かれた結果生じる罪悪感。この日記は、罪悪感にまみれていると同時に傍観者によるただのお話に過ぎない。

05/05/20の日記に加筆、修正