若桑みどりと成瀬己喜男


ちょっとした事情で、新書を読む必要が生じ、手始めに若桑みどり著『お姫様とジェンダー』(2003年)を読んだ。これまで読んでいなかったのは、タイトルで内容は一目瞭然と思っていたからである。私の「読み」は甘かった。もっと早くに読むべきだった。

内容そのものはいたってシンプルで、それというのも、あまり受験勉強が得意でない女が集う女子大の、ジェンダー入門講義がネタもとだからである。取り上げられているお姫様たちは、誰もが知っている白雪姫とシンデレラと眠り姫。美と若さと無知が備わり、じっと忍耐強く白馬の王子様を待っていれば、本人の自助なくとも幸福な結婚にたどり着ける。おとぎ話を読む女の子も自然とその内容を受け入れ、いつの間にか、自分もお姫様の気分になってしまい、王子様の到来を待ち望む。後年、自分はお姫様なんかじゃなかった、と幻滅したとしても、やはり心のどこかで王子様を待ち続け、王子様待望論はしぶとく残る。それがジェンダーで、それに向き合えるのが今である、というのが若桑本の内容である。

刷り込み理論にしてはいささか踏み込みが弱いと思う。若桑は刷り込みを「きれいに掃除しておかないと二十一世紀の女性の生きる力は構築できない」(178)と書いている。以下が理由である。

王子様は来るかも知れないが、来ないかも知れない。だいたい、ほんとうに人生をともにするのは王子様ではないかも知れない。それに王子様だろうが、乞食王子だろうが、出会いは偶然である。来たら来たでいいし、来なかったら来なかったでまたいいかも知れない。だいじなことは、自分の一度しかない人生を偶然や待ちに頼っていないで、ともかく、しっかりと自分でつくっていくことである。(178)

「偶然や待ち」を言い換えれば、運命ということになろうが、運命に対する態度が混迷を極めている現在に置いて、運命にまつわることをそう簡単に「掃除」できるわけがない。私が参加している読書会で指摘されたことだが、多くのひとは男女拘わらず自分を凡庸な人間だと思っている。人生を自分でつくっても、たかが知れている。だからこそ、運命がいつ、どこで、どのようにして自分に舞い降りてくるか、じっと目を凝らして待ち続けているのである。よそ見するなどとんでもない。そうじゃなければ、運命を待つ平凡な少年を主人公に据えた『ハリポタ』があんなにヒットするはずがない。単に待っているだけの人生は終わり、能動的に待つ人生が現代の特徴なのである。

それに加え、運命の偶然性という非合理性も私たちを捉えて離さない。同じ凡庸な人間なら、何故あのひとが選ばれて私は選ばれないのか。同じくらい努力をしたとしても、あなただけが選ばれてなぜ私は選ばれないのか。そもそも、何故私はこの親から生まれたのか。合理性を追求する社会のなかのそのような非合理性に直面しているのが現在である。この状態を下層社会とか希望格差社会とかリベラリズムとか呼んで、非合理性を説明しようとする論が後を絶たないが、それが返って非合理性を強調することとなり、「何故私だけが」感が増長されることはあっても払拭されることは、まずない、と私は見る。若桑はこういった現在に追いつけないでいる。

と、『お姫様とジェンダー』批判を書いてみたものの、実は同書の目的はもうひとつあったのである。それは、ジェンダー学を教える側と学生側との関係をどう構築していくか、という極めて困難な問題だ。

若桑はこの問題については疑いようのない明確な立場を示している。かつて存在していただろう教師像は彼女によって見事に破壊されている。教師は(最初から)正しいという神聖な立場は、ジェンダー学のような生き方を問う授業においては既に失効しており、彼女いわく、「(教師)はいつも自分の容姿を意識し、(学生)の前でさえ、自分の魅力的な身振りを意識していたとふりかえ」る勇気も必要で、「ひと(としての)誠実さ、正直さがいちばん訴える力がある。最初から冷静で賢明な女性には、普通の、そして大多数の女性のことを語ることはできない」(54)。その立場から、若桑は、自分にも王子様待望論の刷り込みがあったことを素直に認め、「大多数の女性」と原点は一緒であることを確認してからジェンダー学授業を行っているし、実際、そう行われるべきであろう、と提言している。

そうやって運営された授業の成果を、若桑は授業後に書かせる短い感想文によって示している。感想文は、「プリンセスが大好き」感想、「やや批判的な感想」、「批判的な感想」の3つに区分けされている。若桑自身がお姫様になりたかったという過去を認めている以上、入門学を受けている学生の「プリンセスが大好き」感想に批判的構えは見せていない。にもかかわらず、感想文が序列されていているのは否めず、「批判的な感想」にはかなりと言っていいくらいの賛辞が送られている。若桑自身の教師としての喜びと呼んでもいい。つまり、授業の成果は、若桑の思った方向に顔を向けた学生の方が評価されている、若桑と同じ思想になる者が迎え入れられているのである。

「正直さ、誠実さ」をウリとする授業が、教師の想定していたところに学生を着地させようとする、強制╱矯正的授業にすり替わる。これが若桑の授業であり、『お姫様とジェンダー』の破綻である。若桑の授業への意気込みが半端でなかった分、読者としては残念な結果ではある。では、破綻しないためには、彼女はどうすべきだったのだろうか? それにヒントを与えてくれるのが、今年生誕100年を迎えた成瀬己喜男の映画『浮き雲』(1955年)である。

成瀬は、市井に生きる女たちを描く「女性映画」、あるいは「恋愛映画」の巨匠と呼ばれている。内容を見ればたしかにそう言えなくもない。登場人物に限らず主人公も女が多いし、それも恋愛が絡んでいることが多い。登場する女優たちも芸達者であるからにして、答えが出ないような女の問題をうまく演技しているし、また、恋愛にしてもいつも答えが出ない。両方とも答えが出ないから、設定に変化を加えて、「女性映画」「恋愛映画」を何度も撮れる。何度も撮れる、というか、撮らせてもらえるくらい、女優、プロデューサー、視聴者から信頼を寄せられているから巨匠なのである。

ということは、映画の内容は同じであり、そうであれば、問題として挙がるのは、形式となる。視聴者を飽きさせず、現在でもなお見るに耐える、そういった同じ内容を支えるのが可能な形式のことである。『浮き雲』には、この形式が最も分かりやすく表れている。

『浮き雲』は、見ていてなんとも「やるせない」映画である。時代は戦中と戦後にまたがる。地方出身の主人公高峰秀子は、東京に出てまもなく姉の夫にレイプされ続け、どういう事情だか知らないが仕事で外地に派遣され、そこで妻子持ちの森雅之と肉体関係ありの恋愛に落ちる。戦後、森を探し出して関係を復活させるも、森は肺病もちの妻と義母を見捨てることができず、かといって高峰との関係も継続させたく、そうなれば、経済的に自活しなければならない高峰は、これまたどういう理由だか分からないが占領軍相手の娼婦となっていく。娼婦となって景気が良さそうに見えるのに嫌みを言うのが、これまた自分の不遇を嘆く森であり、またかつて高峰を苦しめた姉の夫でもある。

さらに、森は若い人妻とこれまた分からない理由で同棲し始め、その人妻にほれ抜いていた夫が妻を刺し殺すという事件が起きて新聞沙汰になり、森も窮地に立たされる。窮地に立たされるもその夫の弁護をすべきとの正義は忘れない。高峰は森と人妻との同棲を知って激しい嫉妬にかられながら、事件後、再び森に会いに行き別れを告げるが、経済が立ちゆかない森は自分の妻が死ぬにいたって葬式も出せぬとあっては面目なく、それで高峰を頼って行けば、高峰は姉の夫の囲い女となっていた。その高峰から葬式費用を借りたと思いきや、高峰は姉の夫の財産を相当盗んで、といってもその財産自体がエセ宗教で稼いだものゆえ、そこまで罪悪感なく、独り身となった森に逃避行を持ちかける。森は、一念発起して、屋久島にて仕事を再開して、人生リセットしようとする矢先だっただけに、迷いは生じたものの、高峰への未練も捨てきれず、2人で屋久島に行くこととなったのである。

ところが、ようやく平穏を迎えようとすると、高峰が肺病を患っていることが判明。高峰は、当時、ほとんどのひとが知らなかった屋久島という場所で、森が仕事で外出中に、誰からも看取られることなく死んでいくのである。高峰が何度となく言う「私は一体どうすればいいのよ」という「やるせなき」までの台詞がこの映画を覆う。

姉の夫が高峰をレイプするのは誰にも止められなかったし、戦中、外地で恋に落ちる男女を責めることもできるはずなく、だからといって、戦後、森が生きる糧を自分に頼る家族を見捨てるわけにもいかない。では、両者に恋愛を諦めろと言う権利は誰にもなく、一方でその恋愛を維持しようとすれば、当時生活していくために娼婦となった高峰を責めることなどできようもなく、妻恋しで妻を殺した男に正義を立てようとする森の気持ちも分かるし、独り身となった森とやり直したいと高峰が説得するのも分からないでもない。逃避行の費用を人から盗んだとしても、その金は昔、自分をレイプした男が不正に稼いだものだから、盗みそのものを非難する気にもなれない。そして、高峰が肺病になったのも誰のせいだと言えない。

どこかで歯車が狂ってしまったのだろうが、その狂いを的確に言い表すことができない。高峰と森に全ての責任があるように見えて、そして2人はその責任を十分認識しているように見えて、それでも事態は自滅の方向にしか向かわない。だからこそ、高峰は、「私は一体どうすればいいのよ」とぼやくしかなかったのである。

私たちは、この高峰の台詞を全面的に引き受ける立場に置かれる。高峰は、そして映画は、この非合理的な人生における、もっとより良い生き方を問うてくる。しかし、これという決定的生き方はない。それを知っているから、全てのことの責任の所在がつかめない私たちは、つい、高峰に対して「そんなことを言われても。じゃ、どうして欲しいの?」と返したくなる気持ちになる。その言い返したくなる気持ちをどう扱うか、が『浮き雲』の形式になっている。言い返してしまえば、映画の術中にはまってしまい、高峰の問いに永遠に縛られることとなる。

非合理的社会において「一体どうすればいいのよ」と問うてくる学生に対して、「あなたはどうして欲しいの?」だとか「これが答えよ」などと言うことは、高峰的問いの罠、無知を装う罠にかけられることである。この巧妙な罠は、同時に、相手の無知を告発するものであることは言うまでもない。それがバッシングだ。若桑が『浮き雲』を参考にすべきだったとすれば、それは、答えに誘導することではなく、ジェンダー学を受ける学生がもっていただろう問いに対して踏みとどまる勇気だったのである。向こうから更なる発言が出てくるのを待つことだったのである。より良い生き方を指南することではない。