三砂ちづると樋口一葉(1)


三砂ちづる著『オニババ化する女たち――女性の身体性を取り戻す』(2004年)についてもはや言うべきことは何も残っていないように思うが、今日は敢えて彼女の本から思考を始めてみようと思う。

本書での三砂の主張は、生物として生まれながらにもつ身体のメインテナンスとデベロップメントにもう少し敬意を払ってもよいのではないか、の一点である。身体といっても脳とか筋肉などのパーツを指すのではない。性的エネルギーのことである。性交も含む運動や勉強や労働や文化創造や政治などに昇華されるべきものとして、生来的に人間がもつとされるエネルギーのことである。三砂は、運動も勉強も労働も文化創造も政治もしなくなったのだから、性的エネルギーが行き場を失っている。だから、開放の回路を見つけましょう、と提案する。だが、性的エネルギーは本当に人間に生来的に備わっているのかという抜きがたい疑念も一方にあり、そういう事情もあって主張の前提に確信がもてないものだから、三砂は「身体」ではなくちょっと曖昧にした「身体性」という言葉を選択している。これが「躓きの石」であった。

「身体」に敬意を払うという主張であれば、ここまで彼女の議論が問題視されることもなかったように思う。例えば、今まで無権利状態におかれていた女性性器に尊厳を与える、というのはフェミニズムの主張である。男による乱用を非難し、医学現場で解釈され切り刻まれる実態を調べ上げ、女性性器を、女の生き方を多かれ少なかれ規定する「女性性」や「母性」という意味の基盤から一度切り離してみる、フェミニズムはこういうことをやってきた。しかし、「身体性」となれば話が違ってくる。身体でありながらそこに収まりきれない何か過剰なもの、それが「身体性」である。人間が動物でありながら動物としては生きていけない何か「人間的なもの」とでも言えばいいだろうか。

三砂批判派は、「身体性」を「女性性」や「母性」の異名だとして、この根拠も何もないフィクションのせいで多くの女たちが苦悩してきた事実を知らないとは言わせない、と詰め寄る。「人間的なもの」って「男性的なもの」だろうが! こういった「正義の人」たちの反応を見て、本の帯を書いた内田樹は、「身体性」をフィクションだと言い切れるものではあるまい。身体に根ざした何かがあるという可能性を閉じるのはいかがなものか? その意味で「身体の声に耳を傾け」るのが「知性」と呼ばれるものではないのか? と持論を展開しつつ、「正義の人」をからかい、さらに内田の思想をバックボーンとしている感のある田口ランディが、赤ちゃんって大好き、もういつでもくっつけるし、ほっぺに何回でもキッスできるし、三砂先生万歳! てな類のことを書く。もはや収拾がつかない。
なぜ収拾がつかないのかは簡単な話で、ひとつには、両派の目線が違う方向に向いていること、もうひとつには、精神分析という踏み絵を避けたことにある。私はそう考える。

三砂批判派の多くは、「身体性」という言葉をキーにして・・・ではなく、彼や彼女たちはこれまで、私とあなた、あなたと彼女、との間に関係を結ぶときにジェンダーなしにはその関係が成立しないと指摘し、またそのように構成された社会人間関係のジェンダーをみると、そこにある権力関係が明らかになる、と議論してきた。例えば、「身体性」と「母性」は同義のように使われることがある。そして、「母性」が女の本能とされ、それに基づいて各種の制度が作られている。とすれば、それら制度によって一方的に得する者がいるはずであり、そうであるなら諸制度の緒である「母性」を一度括弧に括ってみよう、という話になってもおかしくはない。三砂批判派の多くは制度改革派なのである。

ところが、三砂擁護派は、「母性」を括弧に括る前に、もう一度「母性」が「ある」という可能性を吟味すべきだと主張する。理由は簡単で、ほとんどの女の身体には子宮があるからというものである。どうやら、擁護派は実体論の方向に目が向いてしまっていている。性的エネルギーの提唱者フロイトだって、生体組織やホルモンなどと性的エネルギーは関係がない、と言っているのに。実体論派の議論を喩えてみれば、オリンピックや世界選手権の時によく引き合いに出される「黒人の身体能力の高さ」という議論と同種である。乱暴に言えば、黒人の肌の色素に「身体能力の高さ」の秘密がある、という非科学的なことを言っているに過ぎない。

このように違う方向に目が向くのは、両者が、最も肝心な問題――性的エネルギーとは何であるのか――を決定的な論法で説明できないことに起因する。こう書けば、ならどう説明できるのかと、と性急に合理的な答を求められそうなのだが、はっきり言えば、それは謎である。というより、説明できないのが性的エネルギーなのである。

最近テレビに流れている、パチンコ機メーカー平和のCM「こんな平和、見たことない」(ライオンとシマウマ編)はこの謎をうまく利用している。サバンナに群れなすシマウマとそれを遠くからじっと見つめる孤高の雄ライオン。突如としてライオンは駆け出し、一匹のシマウマの首をねらって、ジャンプした。シマウマも同時にジャンプする。ライオンが首の骨をかみ砕くのだろう、と思っていたら、2匹は空中で抱き合ってしまう。思わず、見とれていると、次のようなテロップが流れる。「こんな平和、見たことない。」
ところが、私たち人間は、動物からみたら「こんな平和、見たことがない」と吠えられるようなことばかりしている。相手に脅威を感じたからといって噛みつくことはないし、人前で堂々と用足すことはしないし、性交だって隠れてコソコソしている。そもそも、車を作ったり、本を読んだり、たばこを吸ったりすることも、動物基準とは大きくかけ離れている。なぜ?

それを説明しようと試みて膨大な著作を為したのがフロイトだった。そして、彼が出した結論は、性的エネルギーというものがあると仮定しなければ、人間的行動は説明できない、というものだった。性的エネルギーは仮定である。三砂本は、根本的には、この仮定を信じるか信じないか、という精神分析の踏み絵を再度踏ませようとする契機を作った。ところが、皆、踏み絵は踏みたくなかったのである。精神分析は腫れ物だった。
私は、この「腫れ物」に触ってみたい、と思い始めた。6、7年くらい前のことだろうか。そうすると大きな反発が起きてしまった。

05/03/01の日記に加筆修正