三砂ちづると樋口一葉(2)


精神分析への反発といっても、私が反発したのではない。周りが反発したのである。それを批評ではなく反発と言うのは、そこになにがしかの感情の「トゲ」が見られ、嫌味が含まれていた、と思ったからである。精神分析ではこの種の言動は「抵抗」と呼ばれる。自らの意思でコントロールできない性格をもち、我知らず「つい」やってしまう、という感覚に近い言動のことである。

意思でコントロールできないことなんか誰にでもある体験じゃないか、とは言っても、TPOというものがある。「抵抗」が起きたのは「愛知女性研究者の会」の月例会。つまり、理性的に振る舞うと期待される大学研究者の集まりで起きたのである。

「愛知女性研究者の会」は東海地方の大学に勤務する女性学者を中心とした団体で、女性研究者が直面する問題を一般女性問題とリンクするものとして位置づけ、自分たちの問題を解決することがひいては社会に貢献することになる、という信念のもと活動している。政治思想の水田珠江を筆頭に、マル経の安川悦子、社会福祉の杉本貴代栄らをかかえ、将来学者になろうとする者、必ずや入会すべき団体である。が、間違っても就職斡旋してもらおうなどとの下心をもって近づいてはならない。自分の身は自分で立てよ、との厳しさが信条でもある団体で、だから、コネや学閥などで就職が決まる大学構造を「改革」してください、などの意見は恐れ多くて声に出せない。私たちだって、努力で今の地位を得たのだから、能力と意思さえあれば就職できるはず、できなくとも在野研究者の道があるではないか。そういう目に見えない抑圧が働いている団体でもある。と、今でこそエラそうに言っている私ではあるが、初めて参加した会合で水田珠江を見たときは、ああ、と心ふるえ、話しかけられるようになるまであと5回の会合を経なければならなかった。ここ5年ほどは、会費も未納、ご無沙汰している。

その会の月例会で、私は「非立身出世主義の系譜」と称して樋口一葉についての発表をした。そして「身体性」という言葉を使った。これが私の「躓きの石」であった。

立身出世は、明治時代わが日本国建設、維持のために考案された一種の品行主義というか、イデオロギーのようなものである。江戸時代の四民が明治になって士族と平民に構成し直されたとき、身分差が表面に出ないように両者を国民・臣民に統一する必要があった。そこで出てきた(というか、英国から輸入、翻案された)のが立身出世という考え方で、どのような境遇にいようとも個人の自助さえあれば、「身を立て、社会(=国家)で出世できる」と謳ったのである。ナショナリズムに資する個人主義であり、(文化)資産において勝る士族を激励し、かつ平民から優秀な者を官僚候補としてハンティングできる、万能薬のようなものであった。

立身出世はもとを辿れば、富貴をもって個人的幸福とし、その個人的幸福が国家の期待に寄り添う、そういう一石二鳥を狙う代物ではなかった。少なくとも、提唱者のサミュエル・スマイルズにとっては、「物質的にまたは文化的に、現代文明を進歩させる何かを成し遂げる」(『立身出世の社会史』E・H・キンモンス)という、もっと志が高いものだった。それを都合よく読み替えたのが当時の成功を夢見る、勝ち組志向の青年たちだった。もっとも、今でも勝ち組に対する批判があるように、立身出世的生き方に疑問を抱き反抗した青年もまた存在していた。

北村透谷に代表されるロマン主義者らの批判はことに激しかった。彼らは、生の意味とは何かと問い、社会を外部と見、そこから距離を置いたところで得られる一瞬の、しかしながら、それゆえに強烈なまでの内的な充足を得ること、それが「出世」ではないかと主張した。巷の立身出世は監獄以外の何物でもない。そう言って、抗議(=煩悶)の自殺をする青年までもが現れた。一方、国家の安泰こそが立身出世の目指すべきものと考える国粋主義者も黙ってはいられない。国粋主義者にとって、個人的幸福を追求するとは何事か、利己的そのものではないか、ということになる。

ところが、双方、立身出世主義批判であっても、批判そのものは立身出世主義にパラサイトした身振りであるのだから、同時に、批判に打たれ強い青年も絶えることなく、立身出世主義は生き延び、それで国家も安泰だった。批判がある方がウケがいいのは当時からしてすでに常識であったようだ。
私は上のような反立身出世主義を超えた者として樋口一葉を論じ、彼女の姿勢を非立身出世主義と名付けた。単純な議論である。反立身出世主義者は「国家」や「私」の未来を案じている。が、果たして、そうやって語られる未来は、本当に私たちの未来なのだろうか。かような疑問を持ったのが一葉である。

一葉は士族出身である。が、いわゆる没落士族で、父は死に、母も兄も生活力のない能なし。彼女が16歳で戸主になるも、もとから悪かった生活が向上した試しもなく借金は膨らむ一方。そこまで困窮すれば、女郎か酌婦となり、家族を「救う」と同時に国家財政を潤すのが周りの常套だったが、士族としてのプライドがそれを許さない。で、筆で立とうとし、当時これまた考案された文体「言文一致」で一本書いてみたものの、師から「読めない代物だ」と一蹴される。彼女の友人は「言文一致」を使って大成功を収めているし、「言文一致」論者は今や時代の寵児である。なのに、どうして私だけが。散々悩んだあげく彼女が出した答えは、未来ではなく過去に向かうことだった。

一葉にとって過去は過ぎたものではなく、今だ彼女とともにあるものであった。それが彼女独特の雅俗折衷体と呼ばれる文体である。当時形成されつつあった論壇が、未来を生きるには、国家とともに生きるには、不必要とした文体である。その文体を使って、逆説的に一葉が夢見た未来は、論壇が夢見た未来とは違っていた。

24歳で夭折した一葉が夢見た未来を具体的に説明するのは不可能に近い。当の一葉にだって不可能だったかもしれない。が、不可能なことに立ち会おうとした一葉を説明することは可能である。一葉が作品でしつこいまでにこだわったのが、常に貧しく、疲弊し、泣きながら生を送らねばならない人々を描くことだった。それはいわば、言文一致という文化運動によって人々(と彼らの認識の方法)が統制されていくことへの疑念の現れであり、統制されることで「ささやかな生活」さえもが手に届かぬ贅沢とうつる大量の貧民が生まれることへの哀しみでもあった。こういった世界が、私たちの未来なのか、そうでない未来を選択する可塑性はまだ残されているのではないか。一葉の文体はそう問うている。

私は、最底辺の生活をしながらも、このような一世一代の大勝負に出た一葉に感嘆を覚えずにはいられない。現代にあって、夜逃げ同然の生活を送りながら、国家や国家に支えられた未来という枠組から敢えてはずれた生き方を志向する、私はそれを想像だにできない。語の最良の意味を込めて、私は一葉を言語テロリストと呼んだ。

一葉が夢見た未来は、論壇によって封印されることになるのだが、それと同時に彼女が夢見た未来が不可能なものとなって初めて、一葉が評価された。一葉は論壇のファンタジーになったのである。

私の発表は上のことを主に論じ、さらにその延長線上で、明治から大正にかけての身体の言説を考えるものであった。明治以前、人々の身体は、まずはなんと言っても領主の所有物であった。明治になると、以前の所有者がいなくなったので、身体は誰のものかという議論が出てくる。個人のものか、家長のものか、国家のものか、天皇のものか? 議論はさらにややこしくなっていき、いや、そもそも、新しい時代を作り上げていくエネルギーはどこから生まれるのか? それはもしかして、この私の身体に宿るのだろうか。すなわち「身体性」を問う地平が、国民国家建設の地平と共に切り開かれたのである。

そして、女の「身体性」の地平を切り開いた主役たちは、平塚らいてうであり、与謝野晶子であり、山川菊栄という、大正の女性知識人であった。一葉ではない。もうひとつの未来が不可能になった以上、この地平を切り開くのは、「国民」でなければならなかったからである。

女の「身体性」を巡る言説は、国民国家建設とともに生まれた。「私」のなかに宿る何か創造の源となるもの、として。これが、日本における女の「身体性」の起源である。日本国がなくならない限り、私たちはそれから逃れることはできないし、「身体性」の全ての議論を寄せ集めたとしてもみんなが納得のいく答が見つかるわけでもない。その証拠に、現代の「身体性」論争の大枠が大正時代とほとんど変わらないではないか。

しかし、どうだろう。私の発表のように、女の「身体性」を歴史的に発生した言説として見ていいのだろうか? それとも、フロイトが言うように、仮定として「ある」と考えなければ、全ての人間的行動の説明はできないのではないだろうか? いや、女の「身体性」の歴史化こそが、フロイトへの入り口なのか? 発表は、このような疑問で終えた。

「そういう抽象的レポートでは実りある議論が期待できない。身体性という言葉が出た時点でしらけてしまった。」これが発表への「抵抗」であった。

三砂本は、近代においては、誰もが答えを見つけたくない「身体性」という地雷を踏んだ。
本書には多くの批評がなされたが、この問題に答えようとするものはまだ見かけていない。

05/03/01の日記に加筆修正