高橋源一郎


段取り力という言葉が最近よく使われている。働いている女が子育てや家事をどうこなしていくかは、仕事で培った段取り力が物を言うとか、働きながら資格をとるために学習時間をいかに確保できるかといったところからすでに他人との勝負は始まっているとか。あるエリアで身につけた経験は、他のエリアでも通用し、そのうえ工夫できれば、とっても効果的という議論である。

こんな段取り力なんて、99.99%、いや、多分100%は眉唾物と思った方がいい。例えば、私の場合、同じ教科書を使って複数の授業をしているが、あるクラスでうまくいったことが別のクラスでは全く通用しないことがよくある。それも、おうおうにして、同じ段取りでやった時である。なぜそうなるかというと、簡単な話で、うまくいったからという理由だけで応用(+多少の微調整)に走るという手抜きをしたからである。

応用でうまくいくこともあるではないかと主張するひとがいるとすれば、それは成功した際に遡及的にそういう物語をつくるだけの話で、成功するのは偶然と思った方がいいだろうと思う。そもそも未来は誰にとっても未知だから未来なのである。一方で、「私には段取り力がありませんで」、と言うひとがいるとすれば、一段自分を下げてうまくいかないときのための防衛シールドをはっているか、段取り力に自信のないひととコミュニケーションをはかろうと小細工版「段取り」をしているということになる。それでも、「いや、本当にないんですよ」と言いたければ、はじめから段取り力などに関心を持たなければいいのである。否、段取り力を信憑したうえでの隠れ段取りなんかするな。このように、段取り力は、あると言ってもないと言っても、胡散臭いこと極まりない。

ところが、眉唾物「段取り力」から、悪の根源「〜力」をマイナスして「段取り」にすると、とたんに周りは一変し、神経症の世界が広がる。『広辞苑』の「段取り」定義の第2項目に「事の順序・方法を定めること」とある。一見してなんの問題もない定義に読めるが、「事の順序・方法を定めること」に忠実であろうとすると、偶然に隙を与えないように注意するということが生じ、強迫的にならざるを得なくなる。自分で定めたひとつのことを済ませずして、次にすべきことなどどうしてできよう? という事態の発生である。
よく例として引き合いに出されるのが手洗いである。一度洗ったはずなのに、3分後にまた手洗いをするという行為である。どうしてこうなるかと言えば、手洗いしているまっただ中に、もっといい手洗いの方法があるのではないかと思ってしまい、「今ここ」の手洗いに関心がいかないからである。つまり、何度でも手洗いをするが、このように何度でも手洗いできるように、理想の(=不可能な)手洗いを想定しておくのが強迫的ということである。

さて、この強迫的であることを目の当たりにしているのが、今、私の日記をお読み下さっているみなさんである。この日記は、以前、別の箇所に載せた日記を大幅加筆したものである。お読み下さっているみなさんのほとんどは、すでに私の日記の内容はご存じで、私もみなさんがご存じであることを重々承知なのにもかかわらず、もっと読みやすくしないことには、内容をグレードアップしないことには、もしかして私の言いたいことが伝わらないのではないか、という理由で載せているのである。端から見れば同じ事の繰り返しであり、私から見れば、そうしなければどこにも動けない、ということである。

そして、この客観と主観の差が、「今ここ」に関わる問題への温度差へとつながる。主観サイドから言えば、主観的であることは、「今ここ」の問題のひとつであるが、逆説的に、「今ここ」の問題に関わることを避けることになる。反対に、客観サイドから言えば、客観的であることは、「今ここ」に限らずこれまでもずっと求められてきた態度であるが、「今ここ」の問題に関わるにはこの態度は欠かせない。しかし、客観的であることは火中の栗を拾わぬにも等しいのではないか・・・。

そういうことをつらつら考えると、他人事のように書くとはどういうことなのか、という問題が頭から離れない。それで、暫定的に、それは作品を書くということを意味するものとして考えてみよう、という気になった。ここでいう作品とは、狭い意味での作品で、読者が共感できるようなものを指している。ジャンルは問わない。

前回に書いたように、小倉千加子が善意について他人事のように書いていたので、糸口として彼女の著書をちょっと読み直してみようか、と思ったが、既に内容を読み知っている本を再読する必要もなし。そうであれば近道が一番、ということで、彼女の『結婚の条件』の書評を読んでみた。他人がどう読んでいるのかは傾聴に値する。読んだのは、朝日新聞03年12月14日付ベストセラー解読コーナーにおける高橋源一郎の書評。ところが、高橋の書評に釘付けになってしまって、小倉のことは忘れてしまっていた。書評がまさに作品と化していたからである。

書評上の『結婚の条件』をかいつまんで説明すると、今の若い女たちは結婚を、この世知辛い世の中を生き抜いていくビジネスとして割り切って考えている。社会が依然として女性差別をしているなら努力は無駄であり、勉強ができなければ落ちこぼれになり、就職なぞ簡単にできるはずなく、たとえ就職したとしても意味のない仕事をさせられ・・・そう考えると未来も希望もあったものではない。それに輪をかけるがごとく、消費主義の席巻という現実もある。モノが「私」のアイデンティティやライフスタイルを決定する、という80年代の神話はまだ生きている。そうなると、現在の階層維持は必要不可欠であり、出来るならば上層を狙いたい。こういう世の中で生き抜くには結婚、それも高度な条件を満たす結婚しかない。苦労ばかりの就職・仕事、苦労を強いる均等法、苦労を選び取れと教えるフェミニズム。このような苦労よりも、結婚の方が「私」には合っている。

多少加筆したが、高橋は『結婚の条件』を以上のように読み解いている。さて、問題はこれからである。高橋は何を書いたのか? まずは、以下の文を読んでいただこう。

「二十世紀を戦い続けたフェミニズムは、新しい世紀を迎えて、その解放の対象であったはずの女性たちから『あんた、もういらないわ』と宣告されたのである。」

この文の背後には、フェミニズムは必要であるとの認識が微妙なかたちで潜んでいる。にも関わらず、高橋はそれを言明することをしない。言明すれば、「解放の対象であったはずの女性たち」から「あんたも説教臭いフェミニスト?」と見放されるからである。彼女たちから捨てられないためには、彼女たちに寄り添うことの出来る、つまりはポピュリズムの衣装をまとう配慮が必要とされる。その衣装からさりげなくフェミニズムが顔をのぞかせる、という具合である。

ポピュリズム路線は度を超すとうざったく思われるものである。そこで、ポピュリズムとは一線を画す配慮も求められる。ここでも高橋は見事であった。

「ふつうの学者や評論家たちの見えないところで、この国は、いちばん底から壊れはじめているのである。」

この文は、高橋が「学者や評論家」の部類に属していることを暗示している。ポピュリストと思われても困るな、僕は一応現実を距離をもって観察もできるわけで、というわけだ。もちろんポイントは、高橋が自分を「ふつうの学者や評論家」とは違うかたちで現実を見ている、僕が見ているのが本当の現実なのだ、と臭わせている点にある。では、誰とどう違うのか、という具体性はもちろん書かれない。差異化が目的なので書かなくてもいいのである。

かくして、高橋は、(若い)「女性たち」を理解し、かつ、代弁しながら性差別社会を撃ち、その一方でお堅い「学者や評論家」ではない文筆家というポジションを確保する。非常に魅力的だ、高橋のようなポジションにつきたい人間にとって。まさに高橋の「個性」が輝いている、そういう人間にとって。高橋っていいよね、私、彼の気持ちよく分かる、私は高橋だ、ということになるのである。高橋は読者の共感度を増長させる。そして、これが作品と呼ばれるものなのである。

作品は、このような共同体の磁場を作り出す。作家は、読者がなりたいような「私」を作り上げ、出来上がった「私」に読者が共感できるように仕掛ける。ちょうど高橋の段取り力がそれを可能にしたように。この「私」が時代とともに微妙に、しかし高速に変化していくのは言わずもがなである。問題は、そのような磁場が形成されたら、ちょっとした勇み足はもちろんのこと、とんでもない悪でも笑って許せる世界になるということである。どんなことでも他人事のように書ける世界である。

批評の機能のひとつは、このような共同体の論理を解体させることにあったはずだ。だが、高橋の書評を読む限りでは、それとは裏腹に共同体の形成に余念がない。というか、そうしなければ読者を獲得できない。

では、高橋的な段取り力を批判すればいい、ということになるのだろうか、私がしているように? そうであれば、それこそ私は脳天気であるということになる。ここに書いている批判文は、高橋的段取り力を反転させたにすぎず、結局のところそれを支えているに過ぎない。この批判文は、そういう意味で、本来の批評足り得ていない。作品の反転としての作品である。

しかしあえて言わせてもらうならば、作品は瓦解する瞬間を常に抱えている。それは、対読者関係で起きることで、作品に数カ所ちりばめられた共感の点が、恐ろしくダサク見えてくると、読者は作品から文字通り引いてしまう。作品が駄作というか、ゴミに転落する瞬間である。それとともに、作品に寄生する批判文もゴミになる。この一連の消費が、他人事のように書くことの末路である、と私は思う。

以前、演劇集団オストオルガンの代表をしていた海上宏美は私に次のように聞いてきた。「宮田さんは、作品が書きたいの?」 私は作品ではなく、批評を書きたい。しかし同時に、多くのひとに読んでもらいたいという、作品指向の色気もある。ゴミでもいいではないか、という誘惑である。こういうふうに、あれやこれや悩むのも、「ひとつ」という理想をもっている強迫的人間だからで、「ひとつ」の周囲をぐるぐる回っている限りは、海上の問いに答えられないだろう。

05/05/29の日記に加筆修正