桐野夏生


「20年後(老年期)に報われないと分かっていながら人生を生きるのはつらいだろうね、君みたいに。」
「そうね。」
「報われないとわかっているのに、もしかして一縷の希望はあるかも、と考えてしまうから、それが将来への不安というかたちをとり、一層つらいのだよ。」
「そういう言い方も可能だわ。」
「こういった生き方をジジェクは、‟extremely depressing”、「極端に気が滅入る」と表現している。相変わらずうまいなあ。」
「不安という代理表象をとる希望に憑かれて生きていくってことね、「極端に気が滅入る」ということは。」
「そう、だから何も変わらず。これが、君が以前言った「自業自得」ってやつだ。」

上の会話は、実際には方言で語られたものを標準語もどきに翻訳したものである。気色悪い文章になっているのは、そのためである。ところで、この「極端に気が滅入る」ものというのは扱いが難しい。「極端に気が滅入る」生き方に埋没し、そういった生き方をしているという事実を知らないひとは脳天気なほど健康である。一方で、「極端に気が滅入る」生き方をしており、そしてまたその事実も見据えることができると、「極端に気が滅入る。」前者は生粋の近代人で、後者はポストモダン時代において近代人たろうとする者である。現代は、両者が混在する時代だが、私は、「極端に気が滅入る」生き方をしながら、かつ、それが「極端に気が滅入る」と分かる地点に自分を置きたいと思っている。理由はひとつ。脳天気な人間になりたくないからである。ただ、思うだけではそういう地点に着地できない。苦悩は簡単に転がり込むものではない。苦悩を買うためには紆余曲折を経なければいけない。その一助となるのが、作家桐野夏生マルクス主義宣言である。

桐野のマルクス主義宣言は、今年正月明けの1月4日付け朝日新聞のコラムに掲載されていた。もう10ヶ月も経過している話題について書くなんて、年末の話題もちらほら出始めているときに、との批判もあろうが、私にはまだ鮮明な記憶としてある。なぜなら、少なくとも私にとって、マルクス主義について考えることは、常にすでに、現在進行形の問題だからである。桐野にしてみても、2005年1月4日だけで終わらせたくない問題であるはず。

では、なぜここ数年のマルクス本でめずらしくヒットした的場昭弘著『マルクスだったらこう考える』(2004年)ではなく、桐野のコラムに関心をもつのか、との疑問もクリアしておきたい。「疑問」と大層な言葉を使ってしまったが、要はどちらの方がマルクスをより「知悉」しているかとの「疑問」である。

的場は、既に数冊の本を出しており、マルクス思想の啓蒙に熱心なひとである。『マルクスだったらこう考える』の末尾には、同書の参考文献ではなく、「新しいマルクスを知るための参考文献」が載せてあるほどだ。ところが、その欄にはマルクスの著作が一冊も入っていない。少なくともこれだけは読んでね、とのアドバイスもない。実は、この態度が蔓延しているのが同書なのである。世間はマルクス思想を葬りたがっている。的場はこの状況に我慢がならず、それをどう復活させるかに腐心する。結果、マルクス思想に現代の世界状況を語らせたら、こういう現代版マルクス思想が可能となる、という議論が立った。典型的なリビジョニストである。リビジョニストとは、マルクス思想が漸進的に、それも良い方向に、修正されていくのをよしとすることである。マルクスとともに未来を向いているようで、実はマルクスを参照項に、19世紀という過去にしているに過ぎない、それがリビジョニストである。リビジョニストの眼差しのもとでは、マルクスが過去のひとに成り下がってしまう。そういう意味で、的場もまた、マルクス思想を葬りさろうとしている。この手のマルクス本は読むに値しない。

だから、桐野のマルクスの読みが素晴らしいと言うのではない。多分、彼女はマルクスをさほど読んでいないだろう。2005年1月4日のマルクス主義宣言にしても、「マルクス」という言葉は一度たりとて登場しない。しかし、彼女の場合、視座が現在にあり、現在から思考がスタートし、その思考がはからずもマルクス思想と共振する。現在から思考がスタートする限りにおいて、私たちはマルクスがあれほど嫌った(ある種の)マルクス主義ではなく、マルクスの思考を生きようとすることが、つまり彼の欲望を欲望しようと志すことができる。それは、マルクス思想について博覧強記であることとは全く異なる次元の問題である。では、桐野は何を語ったのだろう? 一節を紹介すると

「所有によって豊かになるという神話を信じられなくなった以上、人と人との関係性を見直していくというこの作業しか、私には糸口が思い浮かばない。」

とある。桐野の口語につられて、つい読み飛ばしそうになるが、「所有」と「人と人との関係性」はれっきとしたマルクス主義用語である。鉄鉱石のような材料、鉄鉱石を鉄板に変える機械、材料を掘り起こしたり機械を動かしたりする労働者を雇えるお金、これらを「所有」するのが資本家。資本家というと何やら時代がかってしまうのでブルジョワと言い換えた方がいいのかもしれない。一方、働くしか能のない人間は労働者と呼ばれ、彼や彼女は働く力より他は何も「所有」していない。この「所有」する者と(労働力以外は)何も「所有」していない者との利害、いや敵対が、社会における根本的な「人と人との関係」である。故に、敵対的人間関係の廃止こそが最も望ましく・・・。桐野の言葉にはマルクス主義がこだましている。

90年代後半、桐野にはひとつの質問が寄せられた。女子高校生に人気のルーズソックスをどう思うか? 彼女は、私が高校生だったら是非はいてみたかった、はやく年を取り過ぎました、とルーズソックスをはけなくて残念との気持ちを正直に伝えている。私は、ほう、と思った。なぜなら、ブルジョワとそうでない者との区別は昔ほど単純ではなく、今や労働力しか持たない者がその力をフル駆動してお金を持とうと、ブルジョワになろうとして久しい時代である。冷蔵庫、洗濯機、テレビ、自動車、そしてピアノを次々に所有し、私たちはブルジョワならぬプチブルになり、ちょっとしたブルジョワ気分を楽しんでいる。クーラーがない家なんて、化粧品のひとつも買えないなんて、と私たちはバカにする。ルーズソックスもはけないなんて退屈で、時代遅れ。理由が主義だろうが貧乏だろうが、おしゃれに関心ないなんて言えること自体がウソつき、くそったれ。このようななかで、かつての「人と人との関係」が消費主義によって媒介され、モノを所有する者が所有していない者(あるいは所有しようとしない者)を臆面もなく揶揄する、そういった限りなく「下品な社会」が生まれた。当時、桐野は、自分が何よりもこの「下品な社会」の一員であると素直に認め、そこのところを思考してみたい、と語っていたように思う。それが上の引用に結実している。

所有によって豊かになる社会が神話だと認識されるには、所有そのものを考えていく必要がある。所有によって豊かになるということは、モノが生産され、消費され、投棄されるサイクルが高速化しているということである。こういった「ガラクタ経済」(ダグラス・ラミス)が豊かさの指標なのだろうか? であるなら、「ガラクタ経済」を支えているのは何なのだろう? 支えているのは、所有するために必要なお金を稼ぐ、家計補助や小遣い捻出のために働くパート女性である、と桐野は断言する。彼女たちは深夜、弁当工場で奴隷のごとく働く。中間搾取されると分かっていながら派遣労働に従事する。お金を得る、という以外には何ら喜びをもてない労働をするのである。一方で、お金が目的なら、労働環境などどうでもよかろう、となるのが資本の論理であり、実際、労働環境は厳しくなっていくばかりで、先の弁当工場ではトイレに行くのも許可制になっている。それに耐えられないようであれば、働かなくてもよい。賃金カットすることもあるが、それにも耐えられないようであれば、来てくれなくていい。これがパート女性の労働である。

さらに、そしてこれが最も肝要なのだが、彼女たちの労働は今や一般化され、若者たちの労働もパート女性化しつつある。そうやって得られた賃金は、携帯使用料やレアなジーンズに化ける。そして、携帯が進化すれば新しい携帯を所有せねばならず、レアなジーンズをはきこなすためにはそれなりのブーツも必要となり、こっそりともうひとつパートを増やさなければならなくなる。そこには、今日と明日、自分の5メートル四方(おすぎ)のことしか考えられない自転車操業があるのみである。そうやって、東京のアメ横も半分が靴屋と服屋に変わってしまった(林真理子)。所有によって豊かになる社会は、このような階層を、いや「貧しさ」を生み出している、それはなんと「絶望的」な社会であろうか。桐野はそうコラムに書いた(と思う)。

だからこそ、桐野は、クライム・ノーベル『OUT』(1997年)で「貧しさ」に絡みとられている人間関係を書かねばならなかった。「貧しさ」という底の風景に恐れずに目を向ける必要があった。私はそう思いながら、何年か前に読んだ『OUT』を思い出そうとした。大筋は覚えているのだけども詳細が思いつかない。それで読み返すより、と思って、映画『OUT』(2003年)を見た。

映画『OUT』(前半のみ、後半はくだらない)は、人間というのはここまで堕ちることができる、という底のようなものを見せてくれる。主人公は深夜弁当工場で働く主婦たち。その中の一人が発作的に犯した殺人をめぐる物語である。こう書けば、犯行に至るまでの主婦の内面的葛藤や、彼女に共感を寄せる同僚たち、そして彼女を断罪しようとする世間、などを想起させるが、もし実際そう想起したひとがいるとすれば、そのひとは、柄谷行人が言うところのユーモアが足りない。私には殺人者の主婦を理解できる、何故なら理解できるくらい自分もどうしようもない人間であるから、と考えるようでは、底を打っていない。理解できる自分を誇ってどうする? このような人間らしさを徹底的に排除したところに映画は成立している。

映画は、同情や共感を寄せることが全く見当はずれなほど堕ちていく女たちを描いている。だからこそ、見ている私たちは彼女たちに同情や共感を寄せることなく、彼女たちの堕ち様をそのまま見ることが可能となる。しかしそれでいて、私たちは暗くなったり、落ち込んでしまうことがない。それどころかある種のユーモアを感じて、笑うことさえできる。これが桐野が言うところの「貧しさ」を見据えることに他ならない。見据えるということは、「貧しさ」に同情することで同情する力がある自分に酔うことではないし、また、「貧しさ」を社会運動の推進力として安易にロマン化することでもない。そのような見方では「貧しさ」が見えてこない。「貧しさ」のまっただ中にいる私たちが、そこから離れて、そこを眺めることができる瞬間を作ること、それが見据えるということであり、その瞬間にはいかんともしがたい「貧しさ」を見て笑うしかないのだろう、と思う。

桐野はコラムを次のような言葉で終えている。「豊かさが失われたと多くの人が感じている時代には、貧しさとは何か、人間はどこまで貧しくなるのかという問題」を考える作業が求められる。見据えるべきは現在である。
05/03/16の日記に加筆修正