永江朗


駅伝の季節がそろそろ終わる。去年10月の出雲大学駅伝(男子)に始まり、全日本大学駅伝(男子、女子)、高校駅伝(女子、男子)、全日本実業団対抗女子駅伝、全日本実業団対抗男子駅伝(通称ニューイヤー駅伝)、箱根駅伝都道府県対抗男子・女子駅伝はもちろんのこと、時間があれば、ニッチとして開催される国際駅伝も視聴した。中学校駅伝(男子の部も女子の部も)はダイジェストでおもしろくないのだが、それでも視聴した。

超エリート駅伝走者であった渡辺康幸が、マラソン転向後ぱっとせず、30キロを過ぎたあたりでどうしても前に進めずに走るのを断念、結局のところマラソンを諦め、母校早稲田大学駅伝部の監督に就任したことも、土岐商業高校時代その公家顔を苦痛にゆがめて走ることが好調の証だった揖斐祐治のことも、諫早高校時代に将来の日本女子長距離界エースになるだろうともてはやされながら、選手としては失意の筑波大学学生時代を送り、資生堂で弘山コーチのもと再起をはかる藤永佳子のことも、いつの間にか頭のなかに自然に入っていった。

都道府県対抗男子駅伝を見ながら、おお、これがかの雑学というものか、実用面ではほとんど役に立たないという。得ようとして得られるものではなく、何か別のことをしているといつの間にか身につけていくという。社会的承認も得難いという。私もようやくひとつくらいもてるようになったわ、と悦に浸っていた。そんな気持ちがいいときに、「駅伝のどこがおもしろいの」と横やりが入った。それはそうだ。この時期、毎週末といっていいほど午後の3時間ほどをソファに寝そべりながら怠惰にまかせて恣にTVを見て呆けているのだから、一言言いたい、聞きたいは当然のこと。

ところが答えるとなると、はたと困ってしまった。正直なところ、おもしろいから見ているのではなく、なんとなく見るのが楽しいといった、どちらかと言えば、消極的姿勢しかなかったからである。そのひとが走らなければ競技が成立しないからだと思う。それは登山にも似て、自分が歩かないことには声はかけてもらえても先に進めないのと同じである。と説明したところで、穴だらけのつまらぬ答えでしかない。それなら別の競技についても言えて、駅伝であることの必然性が見いだせない。しどろもどろの答えしか返せない。
これはマズい。合理的に説明できないとなると、この非合理的行為をBBSに書いた最後の日記に繋げられるように駅伝を思考できないものか、といういかにも非合理的回路が出来上がってしまったからである。駅伝には男子の部と女子の部があるのだから、必ず繋がりが見つかるはず、と決め込んで、その後の都道府県対抗男子駅伝放送を凝視することとした。

頭がそういった回路になれば、目は見つけたいものを見つけるものである。見つけたいものとはあらかじめ想定されているもの(私の場合、既に公開済みの日記)のことである。想定されているものを違うかたちで捉えたいだけである。それは、よく言えばアクロバット的行為として新鮮に映るものであり、普通に考えれば遅延した「自己模倣」(海上宏美)か「他人模倣」である。後者は前者を装うことで欺瞞を発揮すると同時にその欺瞞を隠蔽する。学術用語では「剽窃」として、大学院入学最初の授業で絶対してはならないこととして説明される行為である。だから、うまくいったときは、してやったり! である。欺瞞に自覚的であれば、見つけたいものを見ようとする自分に、それを象徴化しようとすることに、ひとり恥じ入るはずだ。それでは、見つけたいものしか見ないことに快感を覚える文章の末路を続けてみよう。

都道府県対抗駅伝では世代の違う選手が参加する。一般の部(大学生含む)、高校生の部、中学生の部である。何を言わんとしているかと言うと、一目瞭然、体型についてである。念のために申し上げておくと、全選手、選抜されるにふさわしく、走り込みで身体はひきしまっている。男子の場合、この「常識」がすんなり受け入れられる。中学生が一般に襷渡しするときなど、ほお、この小さな体が大人になるとこんなに立派な体格にねえ、とつい声をもらしてしまう。型から格への格上げ(発達)である。

ところが女子の場合、「常識」がどうも通用しない。一般、高校生、中学生ともに「常識」通りの発達が見られないのである。どの部にもスレンダーな体型の選手がいる一方で、胸と臀部と太もも(のどれか)が丸みを帯びている選手がいる。スレンダー体型であっても、胸だけは豊満で、さぞかし走りにくかろうと思われる選手もいる。かたや、胸が小さく、いかにも走り込みました、という体型の選手には、胸の形が重要視される時代のこと、「ツンとした上向き」をよしとする形を問題とせねばならぬのか、と別の思惑が入ってくる。
要するに、男子選手は「常識」通りに体型について難なく考えられるが、女子選手の場合には体型にあれやこれやと、賞賛、納得、心配などの気持ちがついてまわる。女子選手に対しては気持ちの上で徴が生じるということである。

この徴について、女のフェミニストはずっと前から多角的に議論してきたが、男の論客の議論にこれぞというものがあるというのは寡聞にして知らない。そんななか遭遇したのが、連れ合いの清田が連載していた関西の情報月刊誌『ミーツ』(2005年4月)に掲載された角田光代著『対岸の彼女』(2004年)の書評。書評者は永江朗である。800字足らずの長さなのに、書評がそのまま日本の女性論や文化の特徴を押さえる格好となっている。さすが『噂の真相』でならしたライターである。

対岸の彼女』のおさらいをしておくと、主要登場人物は全て女で、でも若い女ではなくて、というのがミソになっている。高校時代の回想が重要なパートを占めるが、女子高で微妙に表面化する、同じ格好、思考という同調性に絡み取られた濃い人間関係、そこに棲む嫉妬や蔑みや卑下のような感情が、実は一過性のものではなく、その後の人生でも本人の意向に関わりなくついてまわることを背景にしているので、若さになんら特権が与えられていない。こういう人間関係にいつも悩み、さらにそれぞれが既婚(子持ち)とシングル(子なし)である女二人いたとしたら? そういう彼女たちの間に友情は成立するのか? これが同書のテーマになっている。

永江はジェンダーが何であるかをよく知っている。よく知っているから次のように書けた。
「子育てひとつとっても、公園デビューが大変らしいとか、公立校は荒れているから無理しても私立に入れたほうがいいとか、不安感を煽る情報ばかり。しかもその不安は必ずしも男女で共有されるわけではない。そもそも、男が「家庭との両立」を前提に仕事を選ぶことなんかあるのだろうか。」

永江の言葉を借りれば、不安をもつかもたないかの差が男女を分ける(私のここでの議論では「徴」があるかないかが男女を分ける)。「家庭との両立」に悩む必要を何ら感じないのが男で、結婚もしていないのに、仕事にも就いていないのに「家庭との両立」に悩むのが女である。男は悩まないでいいというご褒美をもらっており、女にはそのご褒美がない。男というだけで男はご褒美にあずかれる。ご褒美という字義が示すとおり、ご褒美があるほうが社会では有利である。加えて、そのご褒美が有形ではなく無形であるから、女は所有者である男を批判するだけではジェンダーに関わる問題を解決できず、同時に、ご褒美が有形である男に与えられているので、男を批判することから始めるしかない、という複雑さもある。女の生き難さとはこのことをいうのであって、永江は、本書を「成立させているのは現代日本の女性の生きにくさである」と、的確な指摘をしている。

ご褒美は無形であるが、その輪郭を辿ろうとすればできないことはない。辿り方は社会によって異なるだろうが、現代日本の場合だと、仕事と「家庭との両立」をめぐるものであるのは間違いない。しかしながら、上に述べたように、この悩みは解決が極めて困難であるので、男以外の誰かに、自分以外の誰かに、アドバイスを求めたとしても不思議ではない。事実、現代日本において、(女の)既婚者は(女の)シングルがあたかも答えを握っているかのように、シングルを意識し彼女の動向を見守る。逆もまた然り。それだけではない。既婚者は別の既婚者も気になってくる。シングルもまた然り。将来、既婚者かシングルになるはずの女子高生が隣に座っている同級生を意識することも避けられず、その同級生もまた隣に座っている同級生を意識し・・・。

女から女への連鎖は女だけの集団を形成する。この女の集団をどう読み解くか、が日本の文化の一特徴である。角田光代であればそこに友情の可能性を見いだそうとし、桐野夏生は嫉妬や蔑みなど卑しい感情を生む巣窟を見る。そして例えば、現役の女子大生なら、集団が仕事、仕事と家庭の両立、家庭、のどの方向に流れているかを読み取ろうとするだろう。女の集団の文化的等価物も他の国にないくらい華やかである。女の読者を想定している少女漫画や「女性を元気にする」L文学(L=レディ、ラブ、リブ)。女の観客を意識している宝塚歌劇団。そして大奥。みんなみんな、女はご褒美にあずかれない、というところから派生したものである。永江が、『対岸の彼女』は「女性のいまをちゃんと見ている」と言ったとき、恐らくここまでは彼の射程に入っていたと思われる。

永江の射程に入っていないのは、現代日本の女にとってそうでない文化の有り様は可能か、という問いである。女は女の集団を形成しないところに立てるのか。女がご褒美にあずかれないなら、それを受け入れながらも、他の女に頼ることなく生きていけるのか。

この問題については理論的には書けるだろう。書きたい、いや、既に書いたというひともいよう。しかるに、私の現時点での意見は、書く性格のものではなかろう、というものだ。それは、どちらかといえば、生きていくうえで私たちが身に引き受ける問題であろうと思うからである。
05/03/27の日記に加筆修正