『腑ぬけども、悲しみの愛を見せろ』

昨晩遅くに、録画しておいた映画『腑ぬけども、悲しみの愛を見せろ』(吉田大八監督、2007年)を見た。日本映画で久々のヒット。

勝因は、登場人物が内面をもっていないこと。内面をもつというのは、「私は見た感じはこうかもしれないけれども、本当はこういう人間なの」という、外見と「本当の自分」の距離感を常にもち、そのために「本当はこういう人間」という認識だけが突出して自意識過剰になり、どんな行動にも裏というものがくっつくことになって、じめじめした人間関係しか築けないことを意味する。くっついたコブの部分は隠そうにも隠せず、「本当はこういう人間」ってことを理解してほしいという気持ちが前面にでて、いつも場の主人公の座を無意識に取りたがる、とでも言えばいいか。だから、内面をもつひとは重いし、付き合いづらいってところがある。

この映画は役者が割り当てられた役柄を役柄にそってこなす。そうやって、内面を極力排除する。だから、内容はヘビーだけど、サックリ、サックリと進んでいって、鑑賞後の気持ちはさわやか。で、この「さわやか」っていうことをそのまま良しとするのではなく、ちょっと立ち止まって考えなくっちゃいけないかなあと思った次第である。だって、「さわやか」って、結構需要がありそうな感じがするので。

映画はブラック・ユーモアとエロ・グロの雰囲気を漂わせた家族劇。突然の交通事故で死んだ両親の葬式の最中に、女優を目指す長女の澄伽(佐藤江梨子)がふらりと東京から戻ってくる。この澄伽、あらゆる場面で女王様のごとく傲慢をかますのに、兄の宏道(永瀬正敏)も妹の清深(佐津川愛美)もなぜかじっと耐える。澄伽が上京中に宏道と結婚した待子(永作博美)にはこの空気が読めず、ただ一人お人よしぶりを発揮して、けなげなまでに明るく生活する。異常なくらいにである。

実はこの家族、それぞれに秘密があった。この秘密が明るいところに出ていくのが映画の見所である。刃傷沙汰、近親相姦、売春、才能、暴露、美人局、4年越しの初夜など、次々に重い出来事が表に出てくる。秘密の重たさにずうんと沈みこんでしまいそうな勢いだが、人物たちがそんな状態にあっても、その秘密に対して精神的距離感を、いや、アイロニーをもっていないので、秘密に愚直にも真摯に向き合っている印象を受ける。いや、こんな秘密をもっているけど、実はたいしたことないのよ、私が本当に考えているのはね・・・と斜に構えたりしない。秘密が重ければ重いものとして受け止めている。それが、さわやかの源泉である。ブラック・ユーモアやエロ・グロはそれをさらに際立たせる。

さて、問題としたいのは、この直球型のさわやかの所在である。それは、今の人間関係のなかに存在できるのだろうか。存在すると言えば存在する。例えば、大塚英志の対談本を読むと一目瞭然だが、彼は自らの言明に裏をもたせたりしない。その分、相手に対して歯に衣着せぬ物言いをし、たまには怒らせたりしている。大塚のように振舞える環境があればいいが、普通の環境は彼のような言動を許さない。土井隆義『友達地獄』のタイトルを見るだけでわかるように、配慮に配慮を重ねて生活していかなければいけない環境の方がドミナントだ。そこには息詰まるような生きづらさがある。そして、そういう環境を意識し出すと、つい内面がほころび出たりして、さらに生きづらくなったりするという悪循環を生むのである。

ということは、さわやかの所在を探そうとすれば、それは今のところフィクションにしか求められないことになる。実生活で実践するとなるとKYとしてつまはじきにされる可能性が高いから。本映画のようなものが制作され、支持を受ける理由はここにある。