『走ることについて語るときに僕の語ること』

村上春樹は、1982年の秋、職業作家としての生活を開始してから、今日現在までずっと走り続けている。

天気の良い日とか、時間が空いているときとか、涼しい季節にとか、なんとなくその日の気分でとかいう感じで走っているのではない。26年間、毎日走っているのである。それも10キロという距離をだ。どうしても人と会わなくてはいけないというような不可避の事情がある日はお休みしているが、その休んだ日に走るはずだった10キロを次の日にまとめて20キロ走るということを続けている。旅行に出かけるときでさえ、バッグにランニング・シューズを入れて、いつでも走れるように準備している。

それだけではない。毎年、フル・マラソンに参加する。1度、100キロ・マラソンにも参加、完走しているし、最近はトライアスロン・レースにも出場している。レースを完走するためには、相応の走りこみと休養の取り方の兼ね合いが難しいらしく、ほころびが生じないよう念入りな計画をたててそれをこなしているということだ。

『走ることについて語るときに僕の語ること』(2007年)を読んでこのことを知った。これくらい走っていたら、なぜ走るのか、と問いたくなるが、彼の頭のなかには、なぜ走るのかという問題設定はされていない。もし微かにあるとすれば、小説を書き続けるという強靭な精神力と体力を維持するためということになろうが、こういった理由付けは本書ではあまり説得力をもって語られていない。理由をつけようとすれば、どんなことだって理由になって、質問そのものが空洞化してしまい、愚問となるからである。

例えばの話である。1組のカップルがここにいるとして、彼女が彼に「私のことどうして好きなの?」と聞いたとしよう。彼は答えるだろう。「かわいいから。」でもそれで満足する彼女ではない。次には「どこがかわいいの?」と聞いてくるだろう。「鼻。」「どうして?」そうやって、彼は決して彼女が満足するような答えは出せないし、そのうちうんざりしてくるだろう。

答えが出ないのが「なぜ」と聞く質問の形式である。それは相手を追い込み、無知を引きずり出し、その無知を楽しむことで相手の上に立とうとすることである。下の立場にいると見せかけて高みから無知を見ようとする、立場逆転をもくろむ試みである。だから、「なぜ」と聞くひとは、ナイーブであれ繊細であれ天然であれ、その性格は抑圧の痕跡だと言うことができる。もともと弱い人間ではないのだ。本当のところは高い立場に立ちたいのだが、それを肯定するには都合が悪いことがあるので、実の性格が転化してしまって、下の立場をいることになったと考えるのが妥当である。

村上は「なぜそんなにしてまで走るの」という質問をあえて無視して本書を書き進めている。それは、彼が、本のあちこちに、勝ち負けの勝負にあまり興味がないと周到に記していることからも明らかである。だから、彼にとって、走るのには理由も目的もないということが前面に出ている。

じゃ、村上が走り続けるのをどう捉えればいいのだろうか。

最大限に考えられるのは、村上は義務で走っているということである。義務には理由、目的などない。それは、無条件に従うべきものとしてある。走ることを義務化して、走るという信条を貫徹するということだ。しかし、邪魔は入るもので、今日は疲れている、別のことに時間を割きたい、休みたい、などいろいろな葛藤や欲望が心には生じる。が、このような「気分」、つまり、偶然や経験に左右されないことが、貫徹するということである。

走ることを義務化するということは、だから、一種の揺るぎ無い法則を作るようなものである。そしてその法則はいかなることがあってもそれをやり遂げよという命令を下す。一度理性が決めたことをこのようにして遵守していくことは、いつのまにか反転して、遵守すべきものに従ってことを運んでいくということになる。その遵守すべきものが善というものなのである。村上の場合、その遵守すべきものが走ることで、走ることが彼にとって善となる。善を成すということは、「気分」で出来るものではない。

村上春樹のこのような善なる走る行為について読んで、大変感銘を受けた。そういうことをこれまで成したことがないからである。いつも中途半端だった。

で、一念発起し、4月から、あることを義務化してやっている。2,3年やったところで法則になるわけがない。が、それを辛抱強く続けることで、善を成すことの苦しみと喜びを知りたいと思う。