犬と女子小学生

犬を散歩させているときである。低学年らしき女子小学生に途中で出くわした。

我が家の犬トントンは、小学生が大好きである。ちょろちょろ動き回ったり、奇声をあげながら遊んでいるのが特にお気に入りで、自分も一緒に遊びたいと考えているようだ。

それで、ときどき公園の隅に連れていくが、あまり相手にされない。されるにしても、「あ、犬だ!」と大きな声をかけられ、5、6秒興味を示してもらえれば良い方である。が、犬はいたってご機嫌で、両足立ちして、尻尾をふり、歓迎する。

今日会った女の子は、「噛まない?」とまず聞いてきた。噛まない、と断定するには自信がなかったので、「大丈夫だと思うよ」と答えた。そう答えながら、心では別のことにはらはらしていた。犬がすでに両足立ちして、いまにもその女の子に抱きつく勢いだったからである。

すると女の子が急に、半径15Mくらいまで聞こえるような、大きい、それも甲高い声で犬に命令した。

「おすわり!」

そう、それはやさしい態度で犬とコミュニケーションをとるというのではなく、一方的で、女王様のような口ぶりなのである。人差し指で犬を指しているところからも、命令と表現するのがぴったりくる。雰囲気は当然ながら威圧的。

私も犬も彼女の口調と態度にびっくりして、固まってしまった。それでも、私の方は気を取り戻し、心のなかで「お願い、おすわりして!」と祈った。「おすわりもできないの?」と言われるのではないかとひやひやしたし、飼い主失格の烙印を押されそうな感じがしたからだ。小学生から失格と思われると大人として辛いものがある。「大人としてちゃんとやってないじゃない」と指摘されて、「はい、そうです、ごめんなさい」と言えるほど私は素直ではない。ここは、大人としての威厳を守るべく、納得のいく理由をそえる必要がある・・・、そうあせって考えていたとき、また女の子が命令した。

「おすわり!」

声におっかなびっくりで、犬は何事か分からず、言われるままおすわりした。私は、飼い主として認められたような気がしてほっとした。よく、おすわりしてくれたよ、トントン。

女の子の顔をみると、勝ち誇ったような顔になっている。さぞかし気分が良かったのだろう、彼女はおばさんの家で飼われている犬の話をし始めた。句点のないだらだらした話し方で、理解するのに大変だったが、ときどき質問をはさんだりして、彼女の話が終わるのを待った。ずうと続きそうだったので、5分くらいして、区切りがいいところで、「じゃ、またね」と言って、女の子と別れた。

その後、その女の子が「おすわり」と言ったときの口調と表情について考えた。

あれは、低学年の女子小学生が同級生の男子に対してもつ態度からくるものだろうか。私の大昔の印象では、男子はただ遊んでいるだけの単純な生き物に見えて、それに比べて女子は、男子のそういうところをよく観察していて、「今日、○○君は掃除をさぼっていました!」と学級会で発言するくらいの正義感というか生意気さがあった。男子が反論するとなると、女子は輪をかけて詰問し、そういう男子を黙らせるというようなことがあった。

それとも、大人から学んだものか。人間とリードをつなげてある犬は、犬が噛むという最終手段を除けば、強者と弱者の関係にある。大人のなかには、自分より弱者であると思える人に対して、表には見えないが、実のところは高圧的な態度をとっている人がときにいる。言葉は柔らかく、腰が低くても、それは懐柔策であって、秘かに立場の維持をはかる。

ボランティアしているときなんか、そういう事態に陥ることがある。私などは、心から対等に接していると思っていても、突然ボランティアされている人から意見されると、「手伝ってあげているんだからそんなこと言わないでよ」と、「してあげている」という上に立っている意識がつい出てしまって、強者の立場にしがみつこうとする自分に気づくことがある。

件の女の子は、大人のそういう関係性のとり方を学習して、それを実践したのではないか、とも思う。物腰の柔らかさという不純物を取り除いて、純粋なかたちで強者と弱者の関係を反復すると、あのような態度をとるということになるのだろう。

いずれにしても、強者の立場に女の子が満足していたというのは記憶に留めておきたい事実である。強者であることを楽しめるということは、女の子の人の上に立ちたいという欲望の表れである。男の子の場合は、その欲望を結構単純に保持していくように思えるが、女の子の場合には、欲望が押さえつけられることが多い。そうなると、強者であってもいつの間にか、弱者の立場にいる自分という誤認をすることがある。強者である自分が女の子には見えなくなってしまう。

後年、弱者としての自分という自分しか見えない女性は、自分が強者になることの可能性を想像するのが難しい。だから、関係性が固定してしまう。関係性が固定したなかで、弱者の立場から発せられる言葉が、多くの場合、強者の足をすくうものとなるのは、それが強者に対する弱者からできる数少ない攻撃のひとつであると同時に、そうすることによって、言葉のレベルだけでも立場を逆転させ、かつて満足感を得ていたあの強者の立場に立ちたいという無意識の願望の表れと言えそうだ。