湯浅誠とジジェク

昨日は偶然の一致かなあと思うことがあった。

新聞のテレビ欄に「生存権を考える」(NHK教育)という番組の紹介(試写室)があって、その番組には「派遣切り」で失職、住む場所も失った労働者を支援してきた派遣村村長の湯浅誠氏が出演するということだった。番組を見なかったので、「試写室」をいつもより丁寧に読んだ。「試写室」は、湯浅氏の代弁をしていた。湯浅氏の考えとそう大差はないものと思われる。

「湯浅氏は日本を「人間をつぶしていく社会」と語る。口調には政治への怒りと、政治を変えきれないことへのもどかしさもにじむ。」(朝日新聞、2009年5月3日)

「派遣切り」がこれほど大きな問題になったのは、主に製造業に派遣された人たちが雇用調整弁として使い捨てのモノのように扱われているからである。捨てられたモノはリサイクルされるか、不要なものとして燃やされるだけである。現在は、後者が圧倒的に数が多い。こうなったのには、企業にも問題があるし、派遣業の規制緩和をした政府にも責任がある。政府も企業も批判する湯浅氏はごくまっとうだと思う。

だから、湯浅氏を批判しようとは思わない。ただ、最近、このような、政府の政策不備や、企業の露骨なまでの労働力の選別、社会の「どうしようもないよねえ」という雰囲気、などに問題の原因が求められ、批判が集中しているなあという気がしないでもない。

例えば、ニート論壇という呼称ができたのも、政治や企業や社会への批判が大きなかたまりを成してきているからである。それこそヒステリックに糾弾している論者もいれば、理路整然と政策と統計を綿密に検討して新たなビジョンを提案する論者もいる。物言いは多少異なっても、こうなった責任は、政府・企業・社会にある、という点では通低している。

かように、自分の外部に責任があるという考え方が今、膨れ上がっている。そこでちょっと立ち止まって、この外部責任論はどういう効果を生むのか、を考えてみたいなあと思っていたところで、ストンと答えが落ちてきた。昨日偶然にも、ジジェクラカンはこう読め!』(2008年)を読んでいたからである。

ジジェクによれば、社会全体はどうなるかというと、この外部責任論のおかげで返って、スムーズに機能するという捩れた事態が起きるということになる。そして、社会は延命し続ける。

例えば、政府にも企業にも瑕疵がなく、社会が総体的に平等だと想定してみよう。そうなったら、私が失敗して相対的に社会的に低い地位に甘んじなければならないことは、きわめて純粋な意味での自己責任ということになる。だって、社会に非を求める逃げ道はないのだから。

巷で言われている自己責任論は上の徹底した自己責任とはまったく異なる。自己責任論には、「派遣切り」にあったのは自己責任だよ、と言われても、確かに派遣を選択した自分にも責任はあるけど、社会にだって非はあるじゃないか、と抗論する余地が残されている。社会が自己責任という言葉の詐術を使って、本当は社会に不正があるにも拘わらず、その不正の結果を個人の責任にすり替えている、という考え方が自己責任論のどこかにある。つまり、自分と真に向かい会わずに済むようにしてくれるのが自己責任論と言える。

湯浅氏(そしてニート論壇)も自己責任論を批判するが、実は両者の立場はそう違わない。正々堂々と社会を批判するか、捩れたかたちで社会を批判するか、やり方が違うだけで内容は同じなのである。そうやって、外部に責任を求める態度が、「派遣切り」になった人たちを精神的に救うことになる。君たちにも派遣を選択した限りにおいて責任はあるけど、そもそも派遣という雇用形態しか選択の余地がなかったことを思えば、また、政府の無能と企業の身勝手を考えれば、より大きな責任があるのは後者なんだよ、という風に。

ジジェクは精神的に免罪されることについて次のように書いている。

「不平等が人間外の盲目的な力から生じたと考えれば、不平等を受け入れるのがずっと楽になる、・・・したがって、自由市場資本主義における成功あるいは失敗の「不合理性」の良い点は、そのおかげで私は自分の失敗を、「自分にふさわしくない」、偶然的なものだと見なせるということである。」

社会が不正をはたらいて、それが諸問題の原因だと批判する論調が強くなると、社会はその批判に答えて、ではこれではどうでしょう、とより良いあり方を提案してくる。それで、困った人たちの一部が救済されるのだが、それと同時に以前の問題が完全に解決しないままで今度は異なる問題が出てくる。それをまた批判して・・・という循環が出来上がる。そうやって、社会はずっと続いていく。

で、肝心の失敗した私に対する私の反省はいつのまにか社会の批判へとすり替わることがある。そうやって、私は私について真剣に考えるというすごく精神的にも体力的にも消耗する作業をせずに済ませることが出来る。自分を騙しながら楽に生きていくってことである。

こういう人が、社会の不正を実のところ望んでいる。そう考えると、社会が変わらないのにも納得がいく。