涙無しには読めない江藤淳

私は江藤淳の著作を読んだことがない。上野千鶴子の有名なエピソード―『成熟と喪失―“母”の崩壊』を涙無しには読めなかった―で、彼の名を知っているくらいである。そのエピソードを知ったときに『成熟と喪失』を読もうとしたことはあったが、どこで泣いたのかしら、という好奇心から読んだため、内容が頭の中にほとんど入って来ず、途中で挫折した。もちろん、そんな軽薄な動機で読んだのだから、当然と言えば当然である。

それが、ひょんなことから、江藤淳のコレクションが自宅にあるのがわかって、ゴールデンウィーク中にちょっと読んでみようという気になった。読んだのはかつて読み損なった本と内容が重なる「母」(「一族再会」所収)である。

私も「母」を涙無しには読めなかった。

江藤淳の母が亡くなったのは27歳。昭和の始めごろ、日本が太平洋戦争を始める前の慌ただしいなかで、ひっそりと結核で逝った。江藤が4歳半のときである。彼は母の死を喪失と呼ぶ。「母」は、この喪失の体験を蘇らせようとする試みである。

だからといってこの試みは私的なものにとどまらない。江藤は母の喪失によって、皮肉にも母という「ひとりの人間のなかでおこっていることの切実さ」を否応なく感じ取ったのであり、その「切実さ」が時代や社会といかに地続きであったかを確認することで、「切実さ」を私たちの悲しみとして表現する。公けの悲しみというものが存在することを痛感させるのである。

江藤の母は、日本女子大学の英文科を卒業している。当時の写真には、勝気そうな顔が写っているそうだ。卒業論文の題は「Japan, before and after the National Isolation。」趣味は「洋楽、絵画、国際問題、婦人問題、社会問題、政治、家事、文学。」大学でやっていた「係」は「国際聯盟係。」よく「国際聯盟学生支部からお知らせいたします」と叫んでいたらしい。性格は「快活、物にこだわらず、意思固」く、信仰としては「真心の愛」を掲げ、将来の志望は「女学校の教師、或いはSecretary」であったという。

こういったことから推測する限り、闊達な女性で、自由や平等や正義などの理想を深く胸にたたえていただろうことがわかる。近代の価値が、日本女子大学の英文科を通して、彼女の心に届いたのだ。戦争も始まろうかという不穏な時代に、また、縦の関係が重視される家制度がある社会で、江藤の母はそれらを真っ向から超えるような、いわば「思想」をもつ知的な女性だった。彼女は「自ら燃え自ら光」る存在だった。

江藤は想像する。旧態然とした家風に育った父は、そういう光輝く母が表す近代に惹きつけられたのではないかと。そう、父は家よりも近代を選んだのである。そして、それは父にしてみれば母(江藤からすれば祖母)を置いていくことでもあった。

そう考えれば、家にとり残された祖母にとって近代は一種の挑戦である。新しいものが、大切な者を奪い、家までも変えようとする。これはなんとしてでも阻止しなければならない。当時の家制度の中で、姑が母の近代を拒絶しようとするのは当然である。

そして、家制度は近代よりも強かった。江藤の母は、結婚してから近代の光を失い始めた。家制度という日本の現実を引き受けることは、姑と一緒に家を維持していくことであり、姑の相棒としての嫁と認められたいのであれば、姑の意向に沿わなければならないこともある。だが、そうすればするほど、母の光は家制度によって曇っていった。実際、そうやって、彼女は少しずつ生気を失い始める。

そして結核を患い死んでいくのである。あの近代の理想をなにひとつかなえられるままに逝く。江藤の母にとって、生きていたと感じられるのは、日本女子大学の英文科に在籍したときだったのだろう。そこで生きた思想として学んだ近代が、日本の現実を引き受けようと決心したとたん、失われる。この悲しみが、江藤の母のなかにおこった「切実さ」である。

江藤の母の悲しみはあまりある。彼女は現実と理想の両方に立ち向かった。それは極めて知的営為である。しかし、知的営為だからといって、いつでもどこでも歓迎されるわけではない。そのように立ち向かう勇気のあった女性が、不幸なものの到来として扱われざるをえなかった時代や場所があるのである。そう思えば思うほど、学生時代の

「国際聯盟学生支部からお知らせいたします。」

という江藤の母の声がこだまする。