唐組紅テント初体験―「黒手帳に頬紅を」

ちょうど2週間前の5月9日、唐組の紅テントを初体験した。場所は新宿・花園神社で、テントは少し紅色が取れかかってはいるものの、堂々と張ってあった。運動会で見るような白いテントとは違い、遊牧民のものを思わせるような、なんとなくエキゾチックな雰囲気をもった形をしており、それが神社の境内に張られているのだから、異次元の世界に入ったような感じがする。

が、そう感じたのは多分、目が錯覚を起こし雰囲気に圧倒されたからであって、後で分かったことなのだが、テントのために防音壁がないので、上演中に警察車両のサイレンとかが聞こえてきたりして、テントは新宿やそこの生活の一部であった。

興味をそそられて紅テントの中をちょっと覗くと、それは思ったよりも広く見える。でもシートを敷いた地面の上の座らなければならないのだから、尻も足も背中も痛いで大変だろうと思った。神社の境内を見渡すと役300人の観衆がすでに集まっている。ということは、込むことは必至で、すわり心地の悪さに加えて、多分身動きもとれないだろうと思うと、覚悟もいった。お金を払って見るのに覚悟がいるというのはちょっと理不尽な気がしないでもない。

でもというか、だからなのか、入場料は良心的で、前売り3500円だった。演劇は生活者のもので法外に料金をとるようなものではないという方針なのだろうか、これには納得がいった。例えば、BUNKAMURAにあるシアターコクーンでの演劇は大体1万円を超えるようだが、場所代とか華美な舞台装置代とかが含まれているはずで、それらをひっくるめて演劇だとすると、演劇は総合芸術の趣きをもったずいぶんと高級なものになる。唐組の演劇はその意味で高級でなく、誰でも足を運べる手軽さが料金に反映されている。庶民性と呼んでいいのか分からないのだけれども、少なくとも庶民とともにある演劇である。

庶民とともにある演劇というのは、上演された演劇とも共通していた。新作「黒手帳に頬紅を」は、東京の台東区にあるおしるこ屋と長崎の炭坑の島池島をワープで行ったり来たりするものだった。ワープができるためには、池島で働いていた男がもつ、失業手当が受けられることになっている就労証明書、通称・黒手帳(パスポートのようなものらしい)が必要である。劇の大半はこの黒手帳を誰が所有するかを扱っている。

所有するといっても、それは一個人が特権として所有するという類のものではない。おしるこ屋に代表される庶民と、そのおしるこ屋を潰して大型店を建設しようとする、人の頬を札束でぶつような金持ちとの闘いがあって、その闘いを通してどうにか庶民が所有を守りぬくのである。

劇中では、そういう庶民の気概が通じたのか、台東区の店にぽっかり穴が開く。そこで黒手帳をもったみんなは穴に入って池島に向かう。池島に着くとそこにはかつてあった炭坑穴をふさぐように池があった。さてどうしようと迷いはするが、心を決めて池に飛び込む。まではよかったが、途中で、肝心の黒手帳を落としてしまう。大事な黒手帳を落としては、移動が、ワープが制限されるではないか。必死で探し、ようやく、水で今にも破れそうな黒手帳を見つけ、安堵し、また台東区に帰っていく。

ところが、この黒手帳、このワープですっかり弱ってしまって、手帳の裏が取れてしまう。あわてふてめくみんなの前に救世主として現われるのが少年である。どうやら少年は器用ならしく、黒手帳をきれいに直せるという。

この事実がみんなを感激させ、それが大団円となる。当然、唐組特有の演出がされていた。紅テントの、舞台の奥のところが観音開きのように開いて、その向こうにはきれいに直された黒手帳をもつ少年が意気軒昂と直立しているのである。それとともに、それまで空気が汚れていたテントのなかにさわやかな空気が入ってくる。観衆は大喝采である。

しかし、どうして、炭坑の島池島で配布された黒手帳がこれほど大切にされるのか。

黒手帳は、かつて炭坑の島で働いていた一炭坑夫が死ぬ間際、自分の肖像画を描いてくれた絵描きに託したものだった。失業手当がもらえる期限ももう切れている。もはやなんの価値もない黒手帳。水で破れたらそれでもうお終いになるような代物である。

誰でもそう思ってしまう。が、台東区のおしるこ屋に集う人々は違っていた。彼や彼女たちは、なんの価値もない黒手帳だからこそ大切にしたのだ。なんの価値もないというのは、今の社会の価値観が決めたことだからである。

元炭坑夫は匿名の人である。また、かつて炭坑で働いた多くの人々も匿名である。おしるこ屋に集う人々もまた匿名である。匿名として生きていくことは、社会から認められない存在として生きていくことである。

しかし、匿名として生きていくことは、必ずしも真に匿名であることを意味しない。いや、というよりも、匿名というのはそもそもあるのか?おしるこ屋に集う人々が知っていたのはこの知恵であった。だから、名もない元炭坑夫の失効切れの黒手帳を、彼の存在の証として大切にしたのだ。そして、そのお礼が池島へのワープで、それによって、かつての暗黒の仕事場に招待し、そこにも生活があったことを伝えたのである。

こういうこと一切を、社会の匿名者として生きている人々は知っていた。だからこそ、破れた黒手帳を直す必要があった。死人に頬紅をつけてあげて、一個人が送った生活に敬意を払い、彼の死を見送らなければならなかったのである。

劇がこのような物語をストレートに語ったわけではない。今の世の中、こういう葬送が、自分の迷いや周囲の邪魔なしで出来るはずがない。だから、「黒手帳に頬紅を」は、街と地続きの場で上演されなければならないし、上演中も意味に全く欠けるノイズがあふれていなければならないのである。