「タトゥー」―「閉ざされた家族の愛憎をめぐり、近代社会に潜む深層心理を描く、演劇の持つ官能性に満ちた話題作!」(ちらしより)???

近親相姦は、文字通り、血縁関係にある近親者が性的行為をもつことを指す。それ以上でもそれ以下でもない行為である。しかし、社会的文化的タブーとして扱われている。タブーであることの起源は一向に明らかにされることなく、だから、さまざまな憶測がなされる。最も支配的意見は、遺伝子上の問題から疾患のある子どもが生まれるというものであろう。遺伝子という科学用語が私たちを縛る典型的例である。

タブーの起源がこのように曖昧であるにも拘わらず、この曖昧さを前提として、近親相姦という言葉そのものの見直しがされている。近親相姦の「相」が、性的行為に対する当事者の合意を示すようなニュアンスを与えるので、「相」を取るべきだというのである。ここで想定されているのは虐待のような場合で、例えば、父親が娘を有無を言わせずレイプするという行為におよぶとき、「相」はレイプ行為を支える権力関係を無かったものにする可能性があるということである。実際問題として、このレイプによる身体的、精神的被害は娘の方が多く被るというのは否定できない。だから、近親姦と呼ぶべきだという議論がされている。

が、誤解を恐れずに言えば、娘に、父親からのレイプを欲望する気持ちが無意識にでもあったのではないか、と言えなくもない。同時に、なかったとも言える。娘に、父親の性暴力に依存する気持ちがあったともなかったとも言える。娘自身も分からないことである。こういう考え方が出てくるのも、そもそもタブーの起源が分からないからである。だから、近親姦という言葉に全面的に賛成もできない。

このように、近親相姦とも近親姦とも確実に呼べないものが、現在「近親相姦」として社会的文化的に表現されているように思う。

新国立劇場で上演されている「タトゥー」(岡田利規演出)は、この近親相姦をめぐる問いについての演劇である。両親、娘2人の核家族で、父親が娘2人と性的関係をもつ。どうやら、その関係の持ち方は父親からの一方的なものらしく、娘2人が嫌がっていることからもそうだということが分かる。

しかし、娘の父親に対する嫌悪感は言葉のレベルだけでなされていて、父親の手に届かない所へ逃げるというところまではいかない。娘2人はずっと家庭のなかに居続けるのだ。結婚して父親との関係を断つというのもひとつの方法で、実際、長女の方はやっとこれを実行するのだが、父親が新居に訪ねて来られるくらいの距離のところに住んでいるものだから、父親のことが頭から離れないでいる。いや、父親を忘れたくないから近くに住んでいるとも言える。そんな優柔不断な妻を夫は責める。これでは結婚した意味がないではないか、というのが夫の言い分である。

どうも、2人の娘は言葉では父親を嫌っているものの、行動では父親を拒絶していないようなのである。目立つのは、娘の、父親に嫌悪を示す過剰なまでの機械的な言葉のみである。だから、父親に対する態度は「憎」ではなく「愛憎。」それを証明するようなことが劇の最後で起こった。長女は、幸せであるはずの家庭に父親が土足で入り込んできて、もう頭が大混乱する。そして終いには、憎しみを爆発させ、父親を殺そうとする。銃口を父親に向けるのである。が、その銃口の向こうには父親とともに夫も立っていた。長女はどちらを狙っているのか。思わせぶりな演出だが、観客席から見た限り、夫を狙っているようだった。ここで幕が降りる。

この劇は、近親相姦と近親姦の間を表現している。しかし、どうであろう、このあまりにもありふれた陳腐な表現は。私は最初に、近親相姦をめぐる問いを素描したが、それはあくまで私たちが日常で思っていることを素直に書いたものである。日常でなんとなく思っていることは既知のものを考えていることが多く、だから、その素描はありふれているものとなる。しかし、私たちが本当に思っていることをすくいあげるという意味(「深層心理を描く」と謳っているではないか)でこの劇があるのならば、私たちは劇を通して自分の意識・無意識に直面して恐れおののくはずである。が、そんな体験は得られなかった。ありふれたものの再現でしかなかった。駄作である。

私は、近親相姦・近親姦に興味をもっている。それは、血縁関係のある近親者同士の性的行為が社会的文化的にタブーとされる問題と無縁ではない。例えば、私と私の父親が性的関係をもち、それが世の中に広まったとして、なぜ、白い目で見られるのか。多分、答えは得られないだろう。だが、その行き詰まりが様々な表現を取ることは可能である。興味深い表現に出会いたいと心から思う。