ちょっと事情があって、村上春樹について勉強することになり、自宅にある春樹ものを読んでいるが、なぜかほとんどのものがつまらなくがっかりしているところ、昨日くらいから大塚英志物語論で読む村上春樹宮崎駿――構造しかない日本』を読み始める。50ページくらいしか読んでいないけれども、面白いという予感がしていて、村上春樹がなぜ世界であれほど読まれるのか、という私がどうしようもなくひっかかっている問題に、ひとつの見方を提案してくれそうである。なぜ面白いのか、ではなく、なぜ読まれるのか、と問題設定しているのは、私が村上春樹の小説を面白くないと思っているからであって、だから関心が文化人類学的方向に向いてしまう。この文化人類学的疑問が解消されたら、私はなぜ村上春樹を面白いと思わないのか、という疑問も解消されるのではないか、と期待している。

ところで、大塚の議論によれば、村上春樹の小説には「構造しかない」ということだ。簡単に言えば、こうなるわけだが、彼の議論を受け入れるには、プロップの『昔話の形態学』を前提として了解していなければならない。そのプロップによると、ロシアの魔法民話は三十一の最小単位の規則的な組み合わせからなる構造体(大塚19)であるらしく、この彼の見解を敷衍すれば、おそらくは多くの文化圏内における民話や物語にも同様のことが言えるという。

大塚が着眼するのは、時代がかったプロップの昔話論そのものではなく、プロップが展開した「三十一の最小単位の規則的な組み合わせからなる構造体」という仮説が、現代でよく言われるところのデータベース化を説明する仮説として有効ではないかという点である。データベース化を可能とするメディアが整って、データベース化ができるようになり、そこからデータを好きなように組み合わせることによって物語を作ることができる。そして、それら出来上がった物語は、表層的には無限の多様性があるけれども、よくよく分析してみれば、いくつかの構造しかない、ということになる。もし誤読していなければ、大塚が言おうとしているのは以上のようなことである。

ということは、ある構造をもっていれば、それは多くの文化圏で受容されやすい。なぜならそれらの文化圏にもその構造をもとにした物語があるからである、と仮定できる。

ここで、思ったのが、映画『おくりびと』である。『おくりびと』は、音楽で挫折した一人の男が再生を果たす物語である。東京のオーケストラにチェロ奏者としてようやく就職するものの、オーケストラが財政難で解散し、男は仕方なく故郷の山形に妻とともに帰る。そこで、得た仕事が納棺師であった。妻にも旧来の友人たちにも「もっとまともな仕事に就け」とまで言わしめる納棺師。死体で金を得る仕事は「まともではない」と思われているらしい。そういった四面楚歌のなかでも、しかし、男は仕事を黙々と続ける。納棺という儀式を、ゆっくりと流れる時間のなかで、静謐に行う男。死者を思いやる、いや、死者と交感する男。男を通して、死者の家族は死者と和解する。それが、だんだんと周囲の人々の誤解を解いていくことになる。

実はこの主人公の男は、山形に帰っても、父も母もいなかった。父は男が6歳のときに女と出奔しそれ以来音沙汰がなく、母は2年前に他界していた。あるのは、母が残してくれた家だけであった。

多分父を思いながら死んでいった母、生きているかも死んでいるかも分からない消息不明の父、そして納棺師として出会う死者たち。これらが男の心のなかで交差するなか、男は幼児時代を回顧し、自分にチェロを教えてくれた父は今どうしているだろうか、もう死んでしまっているのだろうか、とつい思ってしまう。母と自分を捨てた父が憎くないわけではないが、自分に音楽の喜びを、それを通してコミュニケーションの術を教えてくれた父が頭から離れない。そうやって、男は父の影にひっそりと寄り添いながら毎日を過ごしていく。

映画のクライマックスは、男のこの父との再会である。が、生きている父ではない。死んでいる父である。つまり、納棺師として「あの世」の方に身を置いていた男が会う父は必然的に死んでいなければならなかったのである。男は父が孤独であったこと、寡黙であったこと、真面目であったこと、過去を語らなかったことなどを聞かされる。こういったことは、女と出奔した自分の人生を清算する生き方であったのだと映画は強調するかのようである。だからこそ、死者と交感する納棺師と父は「あの世」で再会し、そして和解ができた。男が幼児期からもっていた父に対するわだかまりから男は解放されるのである。

もうお分かりだと思うが、『おくりびと』は構造をもっている。それは、こちら側で生じた父との不和をあちら側で再会することで和解し、そしてこちら側に戻ってくるという構造である。この構造に、地域独特の文化的意匠や妻や友人との葛藤が添えられているのである。

ということは、『おくりびと』がアカデミー賞を取ったのにも納得がいく。ハリウッドが『おくりびと』にまず魅せられたのは、「日本的風土」のエキゾティックさなどではなく、ましてや納棺師という豊かな仕事ではない。父と子との和解という構造の受容が前提としてあったのである。だから、『おくりびと』は評価の敷居をくぐれたのだし、その前提のもとで、構造の意匠が評価されたのである。そして逆転が起きる。構造は無意識としてあるものだから、かえって意匠が前景化され、納棺師という仕事にハイライトした手腕が評価されることとなったのである。