啓蒙なんてできるんですかーTAGTAS円卓会議にて

という質問が会場から出た。TAGTAS(Trans Avant-Garde Theatre Association)プロジェクトが行った円卓会議でのことだった。

会議のテーマは「革命の身振りと言語I――演劇の自由と倫理」。ちょっとばかり大げさに聞こえるテーマは、このTAGTASが大逆事件についての上演を行っていて、演劇と大逆事件を交差させて考えることによって、演劇を含む「芸術の自由と倫理と可能性」を、芸術が失墜したといわれる時代に再考しようと試みているところから出てきたものと思われる。

報告者は3人。英文畑の遠藤不比人氏と鈴木英明氏。もう1人は表象文化論の井上摂氏。遠藤氏と鈴木氏は精神分析を使っての報告で、井上氏は主にパオロ・ヴィルノの論に依拠して論を進めていた。遠藤氏の報告内容は、失礼ながら失念。鈴木氏はフロイトフェティシズム論を注意深く読むと、時代閉塞の状況でも可能性を見出せるヒントがあるのではないかと提案。井上氏は演劇の倫理を語る。今や、私たちが個人のものと信じてきた日常の会話や感覚や見た目(表層ですね)などが労働の「直接的内容」となり、これだけは私たちの個人的なものであり自由にできるといったものが無くなってしまった。労働はなぜそこまで私たちのものを収奪していくのか、それにより私たちがいかにとまどっているか(とりとめのない会話も考課に影響するのですから)、また、私たち自身もこの収奪に関与しているのではないか、と井上氏は説明し、演劇の倫理は、この社会のシフトを、労働によるさらなる自由の収奪を上演することによって、今現在の破廉恥な社会に対して、私たちが羞恥心を持つようにすることではないかと結論付けた。

井上氏に関してはよく分からないけれど、私には他の2人の報告者は啓蒙する立場にいるなあという印象を持った。そして実際、遠藤氏は「啓蒙についてはその失効が言われて久しいが、それでも啓蒙する必要があるのではないか」という内容のことを全体討論のときに述べた。この発言が「この時代、啓蒙なんてできるんですか? 誰が啓蒙できる立場にあるんですか」という質問を誘発したのである。

不意をつかれたように、遠藤氏はすぐには答えられなかった。それは彼が持論を説明するのに力を入れていて、その際自分の立ち位置に無自覚だったからだろう。質問は遠藤氏個人に対してではなく一般的な問いとしてあったと思うが、遠藤氏はそれを自分に差し出された質問として捉えていて、ちょっと慌てたような感じで「私は発言すると同時に自己否定をするように心掛けている」という質問に直裁に答えないような答え方をしていた。

私はとても不思議に思った。なぜなら、「啓蒙できる」とはっきり言えばいいと考えるからだ。

質問した人は、多分、価値が相対化して全てがフラットになっているとき、何を啓蒙すべき内容とするかを決定できる人などいるのか、そもそもそんな内容などあるのか、と思っていたにすぎないと思う。

私は啓蒙理念の自由とか平等とか友愛とか正義とかは大切にしたいと思っている。が、それといかに啓蒙するかということとは話は別である。今、上から目線で啓蒙理念を訴えても効果があるはずがない、という思いは質問者と一緒である。

では、どう啓蒙するのか。難しいが、この問いに答えるのが精神分析である、と私は考える。精神分析では啓蒙という言葉は使わない。その代わりに、転移という言葉を使う。分析者と被分析者との一種の関係性を表す言葉である。

臨床で、被分析者は分析者をある特定の人物に置き換えて、分析者(=ある特定の人物)に対してこれまで抱えていた問題を反復する。このときの両者の関係性を転移と呼ぶ。この転移状態にあるとき問題が解決されることがある。問題の所在、問題の真理に、被分析者がはたと気づくのである。被分析者が自ずと蒙を啓くともいえる。

分析者があらかじめ被分析者の問題を熟知し、そのことを告げたからこうなったのではない。分析者はその問題については何も知らない。ただ、知っていると想定された者として被分析者と対話するだけである。そして、転移状態に入ったら、被分析者が自分の真理と対峙できるように対話にバリエーションを加えるのである。

そうすると、分析者も被分析者も、後者の思いがけない真理に出会うことができる。これは、両者にとって驚くべき出来事である。

精神分析ではこのようにして真理にたどり着く。真理の内容は最初から分からない。それは、転移を通して明らかになるようなものとしてある。また、分析者は授ける知識を持っているわけではない。分析者が持つべきものは、知っていると想定されている者として転移を起こさせ、そしてその転移を有効にするための技術である。

知識人が知を大衆に啓くという時代はもう戻らないと思う。だからといって、啓蒙ができないということにはならない。私は、精神分析が今の時代の啓蒙の手段ではないかと思う。この円卓会議の全体討論を聞きながら思ったことである。