異なる声 (1) 

家族が買っていたので、小倉千加子斎藤由香(自称サントリーの窓際OL、または躁鬱病作家北杜夫の娘)によるコラボ本『うつ時代を生き抜くには』(フォー・ユー、2010年)を読む。家族(乱読が得意)が、5、6ページくらい読んだところで「おもしろくない」と言ってテーブルに放り出したので、ブック・オフに持って行かれる前に、すばやくそれを取って保管しておいたのだ。夏休みになったので、さあ読もうという気になったのである。

が、案の定、家族が言ったとおりだった。斎藤は、うつが日常のどんな過ごし方と関係しているかを語り、そのような日常の過ごし方をいかにうまく回避するかを明るく語る。例えば、会社の昇級試験では、受験者がみな勉強しているからすぐ解答出来るらしいが、斎藤はそれがほとんどできない。それは、彼女に勉強する力がないからではなく、人から期待されることができないからである。昇級するために勉強するという考え方自体に否定的なのである。

小倉は、そういう他人に振り回されない斎藤の態度を知って、これこそうつの時代を生き抜く知恵として賞賛する。そして、うつについて学術的に説明を加えていく、という本である。

多くの人が、勉強をして昇級するのはなんか変と思っているだろう。そういう人たちは、自分のいろいろな部分、隠れた部分も含めて総合的に評価されたいと思っているはずだ。気持ちも含めて。いまや会社は、私たちの総合的なもの(気持ちも含めて)をひっくるめて利用しているのだから、そう思いたくなるのも当然である。ところが、昇級や考課のことになると、会社は選択的にしかその人たちを評価しない。誰もが経験的に分かっていることを、言葉にしたのがこの本なのである。知っていることを確認させる本でしかなかったのだ。

小倉も終わりだな、と思っていた瞬間、最後のあたりで思わぬページに遭遇した。小倉が、彼女自身の現在のフェミニズム観を少しではあるが語っていたからである。それは、私が理解する限り、これまで彼女の本からは伺うことができなかった言葉で、大きな驚きだった。

斎藤が父北杜夫躁鬱病に折り合いをつけながら成長してきたのは有名な話である。が、そうやって生きてこられたもの隠れたサポートがあったのをこの本では明かしている。母親の存在である。斎藤の母親は「子育てや家族のために栄養のある手作りの食事を毎日つくって」(194)くれていたらしい。それに対して小倉は、「母親の力のすごさに胸を打たれる。人の体を大切にする人は、すごいと思う」(194)と心の底から母親を褒め称える。たしかに家事は、性的役割分業として女性に振り当てられ、家事が通常の生産活動ではないために社会的に貶められ、そこから家事に従事する女性も社会的に低い地位に置かれてきた。これまで小倉はこういったことを力説していたはずである。ところが、今回は、その家事を「「女性的な世界」という非常に重要な世界をつくりだしている」(194)ひとつと肯定的に捉えているのである。

もちろん、これは、だから女性だけが家事をすべきだと推奨しているのではない。ただ、家事によって性差別が生じているかもしれないが、このうつの時代、バランスをとって生きていくには、「女性は、昼間会社に行って、男性的な世界にいても、女性的な世界をもっていないとバランスが保てないかもしれない。女性は家族でなくても他人であっても、精神的にお互いに助け合う相互扶助のようなことが自然にできるものである」(194)から、と、親密圏での女性の家事や「相互扶助」を重視している視点が導入されているのである。(男性的な世界にも親密圏が存在するのは至極当然である。それを体現しているのが斎藤である。)

親密圏での女性の仕事は「感情の仕事」だと言われる。家事や看護や介護などで、それらは「自分が得をするために競争する仕事ではなく、採算を度外視して」行われる「善なる仕事」(196)である。「自分のためではなく、人のためにする、いわば無私の仕事」(196)である。垂直方向を目指す男性的な世界に生きようとするものには、この水平方向をもつ「感情の仕事」はできないだろう。反対に言えば、「感情の仕事」に女性が多いのは、女性が水平方向を志向する存在だからである。

「感情の仕事」は、それを強要されてもいつの間にか「無私」の気持ちを生みだす。そうでないと「感情の仕事」は持続してやっていけないのである。自己が前面に出てしまうと人と競合することになるからである。そして、この「無私」の気持ちは、人のためにやっているのだからという理由で、女性たちに自分を語らせるのをよしとしない。というか、女性たちは自分を語るのをよしとしない。人の方を優先すべきだと知っているからである。そうやって、自分を語らない女性は、語らないがゆえ、社会から理解されず、「人からも語られない人になる。」(196)

そして、小倉は結論づける。「「最も語られることのない人」は、最も重要な人である。フェミニズムという思想は、ただそのことを伝えてきた思想である。」(198)また、こうも言う。親密圏では、女性は自分を語らず人の言葉に耳を傾ける。「相手の言葉に耳を傾けることは、二者関係を継続したいのなら、人の務めのようなものである。相手の話を聞くことは、相手の存在を認めることである。「傾聴」することは最高の愛の形である。」(208)

フェミニズムという思想は、今小倉が賞賛した女性の「感動の仕事」を性差別の温床として解体しようとしてきたものだと思う。が、ここでは、発想が真逆になっている。これまで、社会的に女性が貶められる原因となるようなことが、実は、女性がもつ人への、社会への、最高の善として考えられているのである。

小倉はどうしてこのような発想の転換をしたのだろう。「女性的な世界」(親密圏と言ってもいいかもしれない)や「感情の仕事」、「相互扶助」など水平方向に志向をする人がいまやフェミニズムの主体として位置づけられている。これはどういうことなのだろうか。

私個人としては、その答えは、1年半前に本ブログで書いた「フェミニズムがL文学化する」の延長線上にあると考えている。今年の夏は、このことについて考えてみようと思う。