異なる声 (2)

「女性的な世界」が「男性的な世界」と一緒に議論されると、2つの世界は競合する位置に置かれることが多いように思う。

例えば、「男性的な世界」での発達過程や行動や概念などは価値判断をする際の暗黙の基準や達成目標となっていて、そういう枠組みでは、「女性的な世界」の諸々のことが、価値あるものとみなされず、あるいは例外や逸脱として扱われることになる。だから、価値がないもの・例外・逸脱は、教化してそれらを「正しい」目標に向かわせなければならない、ということになる。

自立を例にとってみると、これは、これまでケアしてくれた人から離れ、1人で生きていく力をもてるようになったことを意味している。1人で食べていくだけの経済活動ができ、自ら意志決定、選択決定などを行うことができる。

自立は明らかに男性をモデルとした達成目標である。男性は小さいときからそう発達していくことを教えられる。が、女性は違う。ケアしてくれた人から離れることをしないこともあるし、1人で食べていくだけの経済活動ができない人もいる。意志決定・選択決定する際も、状況や人の判断などを考慮して行い、自分1人で突っ走ることをよしとしない傾向がある。

これらのことは、先験的に男女がそうだということではなく、経験的にそういう傾向が多いという観察に基づいたものである。にもかかわらず、ある種のフェミニズムは、女性に自立を求める。自立しないと、今の世の中、生きていけず、必ずしや誰かの助けを求めることになるからである。暗黙裏に男性モデルを価値あるものとして見なしている。

男性をモデルとしたものであっても、価値あるものは価値があるのかもしれない。だが、自立を価値あるものとした場合、どうして同時に、誰かに助けを求めることに負の価値をつけなければならないのだろうか。

今度は逸脱を参考にしてみよう。「男性的な世界」からみれば女性のある行動や態度や選択は逸脱に思われるかもしれない。これまたある種のフェミニズムは、このような逸脱は教化すべきものではなく、反って、「男性的な世界」における生き難さを告発するようなものであって、さらには、逸脱自体が「男性的な世界」を変容させていく契機となりうるのだと論じる。

確かにその通りであることもあるだろう。しかし、再考すればするほど疑問が湧いてくる。そもそも、逸脱は「男性的な世界」を基準としているから逸脱として見えるのであって、「女性的な世界」から見れば、至極当然のことなのかもしれないのである。100歩譲って、逸脱であってもよいとしよう。けれども、どうしてその逸脱が「男性的な社会」を変容させる契機として利用されなければならないのか。わたしたちの世界はあくまでも、「男性的な世界」を基準としてまわって行かなければならないという了解なしでは、このような考え方は生まれ得ないのではないか。

「女性的な世界」と「男性的な世界」は、互いを尊敬し合い、一方をみて我が身を直すということをしない。「男性的な世界」に対して、「女性的な世界」は下位に置かれ、「異なる声」として傾聴されることがない。「男性的な世界」が「女性的な世界」に君臨している。

と、主張されたのは約30年前のことである。発達心理学者キャロル・ギリガンは、発達心理学の分野における発達モデルがいかに男性を中心として形成されているかを慎重かつ大胆に指摘した。彼女の『もうひとつの声』(川島書店、1986年。オリジナルはIn a Different Voice, 1983)を今読んでいるところだが、議論を支える彼女の女性に対する尊敬と信頼の厚さに、わたしは驚かされ、深く考えさせられる。それは、わたし自身が女性に対する尊敬と信頼を失っている証左である。

1980年代初頭、先進国における多くの女性が男性モデルを基準とした達成目標を自らの達成目標として突っ走っていたように思う。日本でも、雇用機会均等法の成立を前に、ついに女性の社会進出が社会的に当然のものとして認められるようになったことについて、多くの人が喜びに浮き足立っていたようだった。

その陰で、「女性的な世界」はまるで忘れ去られるか、どこか隅っこに置かれているようなものだった。そういう時代に、時代に逆行し、時代を駆け抜けていこうとするフェミニズムに異を唱え、発達心理学の分野からも異端視されるかもしれないという、総スカンを食らうような議論をギリガンは始めた。まさに、「女性的な世界」を忘却させまいとする義の人である。30年を経過して、現在、彼女が始めた議論はどう読めるのだろうか。