フェミニズム言説がL文学化する −(7)フェミニズム言説はどうL文学化したのか−

まずは、フェミニズム言説の変化からみてみよう。例にあげるのは、もっとも学術的な本のひとつである竹村和子『愛について』(2002年)の第一章「〔ヘテロ〕セクシズムの系譜――近代社会とセクシュアリティ。」本章は、もともと「資本主義社会とセクシュアリティ――〔ヘテロ〕セクシズムの解体にむけて」という題で、学術への登竜門である『思想』に1997年9月に発表されているが、掲載しっ放しではなく、同雑誌に掲載された他の論文と合わせて上梓された。その際、『思想』掲載時にあったL文学の芽のようなものが摘まれることなく本に残されたという点を重視して取り上げる。

『愛について』は難解であるが、額に汗して読むべき本である。というのも、議論の糸口がなかなかつかめないセクシュアリティという問題に、私たちを納得させるかたちでランディングさせてくれるからである。セクシュアリティは、性行動や性対象選択や性にまつわるファンタジーなどを総称して呼ぶための言葉である。こういった私たちのセクシュアリティは、過去の性言説や性行動などが重層化されるなかで変化し、なおかつ政治社会体制に矯正、利用され、ときには解放言説と幸運または不幸な出会いもし、という複雑な場にあり、その複雑性がまた性差別を固定化する働きをしてきたのみならず、セクシュアリティは「自然」なものという見方が大勢であるからこそ、自然なら言葉は不必要じゃないかという理由で、それは「語りえぬもの」(3)としても存在してきた。だから、「語」られず、「語」る言葉を持たぬひとびともずっと存在してきた。これら三重にも折り重なった困難な問題とみえるものの顕在化、政治化が同書の目的であり、『愛について』は、自らの政治性を発揮するにあたって、この「秘匿」(3)された問題を、[ヘテロ]セクシズムと呼ぶことにする、と宣言する。竹村曰く、

わたしは性対象による差別、すなわち異性愛を規範とみなす異性愛主義(ヘテロセクシズム)は、男女差別(セクシズム)と不可分な関係にある抑圧構造だと捉えて、それを[ヘテロ]セクシズムと呼ぶことにした。(3〜4)

で、同書の議論がどう展開していくかと言うと、これがまた難解で説明しにくい。それで、ざっくりした粗筋のようなものをくっつけて置く。竹村の生物学的還元論批判より。男が女を好きになるのを自然な行為と説明するには無理がある。異性愛においては、その対象選択が諸々の制度の影響を受けているからである。例えば、男のペニスという凸と女のヴァギナの凹の合体が自然なセックスに見える私たちの認識は、性対象と性行動が生物学的に、生殖的見地から、他動詞的に、既に決定されているという見方に毒されており、そこから漏れる人々と漏れるものを知らぬ間に排除する方向にはたらく。排除の上に自然があるということである。また、このような生物学的認識にもとづくセクシュアリティが正しいセクシュアリティのあり方だとされるなら、大元の生物学に、あるいは正しいセクシュアリティにそぐわない行動や見解や言説は間違っていることになる。しかしそういった見方が男女差別の温床となっていく。そしてこの温床がまたセクシュアリティの正しいあり方を重層的に規定していくのである。そう考えていくと、そもそも特権的指標とされる生物学が真理であるという証拠はどこにあるのか。生物学にしたって、実のところ仮説にすぎないではないか・・・という風に、異性愛主義と男女差別は「不可分な関係」にあることを説明し、竹村はその関係を丁寧かつ緻密に辿っていく。

ところで、こう議論する竹村の手法は正攻法の学術論法である。これまで発表された学問の蓄積がまずあって、それを多角的に吟味する。その結果、批判する意見と準拠する意見を選びだし、一番寄り添える学者の意見を軸にして、それらを弁証法的に論じる。そして、最後に持論を述べる、というものである。竹村の場合、この論法がことのほかうまくいっており、的確な表現を選びつつ隙のない議論を展開している。

私が興味をそそられるのは、的確で隙のない議論がある一方で、それを軟化させるような箇所が同書にあることである。それが先に述べたL文学の芽である。そこでは竹村は、学術から離れて表現を平易にしており、読者にやさしい心で接しているように思える。

彼女のやさしさが現われるのは、女性同士の関係や女性の共同体について言及するときである。アメリカでは19世紀前半から中葉にかけて男女の領域が分離し、その結果、女性同士の関係が強くなるだけではなく、女性の共同体ができ、女性特有の文化が形成されたという。その例。「余暇時間と余暇行為が増大するにつれて、女同士のネットワークは友人や近隣人に拡大し、その活動も楽しみだけのための訪問や、お茶の会、買い物旅行などに発展し、期間もときに数週間、数カ月におよぶ場合があった。夫よりも長い時間を女の友人とすごす機会が増えたのである。」(47)あるいは、「女同士が・・・熱烈な手紙を交換」したり、その絆が「社会的に容認され、新婚旅行に女の友人を伴ったり、結婚後に同居することすらあった。」(47)19世紀ということで、少し時代がかっているものの、「女性だけにしか分からない」文化がここにある。修学旅行の夜、電気を消してから始まるガールズトークと同質のものである。それを学術の海のなかからピックアップした竹村の感性は明らかに「女の子」である。

リリアン・ヘルマンからの引用はもっと「女の子」が前面化している。竹村はヘルマンから引用する際、女性の同性愛は性器的快楽と脱性器的快楽(性器を中心に構造化される快楽と性器を中心に構造化されない快楽)の両方があってもいいと議論しているのだが、ここで注目したいのは、女の子にとって同性愛的脱性器的快楽は日常にあふれているということだ。リリアン・ヘルマンからの引用。二人が一緒に生活し「とても親しく・・・友達のように愛していて」、仲良く「夜、映画を一緒に見にいったり、ときには夜、一緒に本を読んだり、お茶を飲む。」(65)前半の引用は大学生がよくやるルームシェアを思い出させる。テレビを見ながらソファに一緒に寝てしまうなんてことはよくある話だし、そういうときのふたりの顔は一卵性双生児である。また、いろんな話をしながら、「ああ、なんて楽しいんだろう、私、本当にこの子が好き」と思うことも多い。後半の引用は、あたかも高校生が友だちの家にお泊りにいったときを表現しているようである。マンガを交換して読む。「飲み物何がいい?」と聞いて、冷たいジンジャーエールを冷蔵庫からもってくる。何も話をしていないけれど、なにか通じ合うものがある幸福な時間。竹村の記述を読むと、女の子であるための条件を並べているかのような錯覚に陥る。

きわめて学術的な本のなかに挿入されている女の子の感性。女の友情や同性愛的脱性器的快楽への言及。これを、学術の目を掠めるために学術の装いで登場させたこと。これこそフェミニズム言説がL文学化するための第一歩だったのである。