「悲望」

小谷野敦が「悲望」を『文学界』に掲載したのが2006年8月。実在の人物が確実にトレースできるくらいに「実録」ぽかったし、内容も小谷野の思いつめた恋情が生々しく前面に出ていたので、掲載後に被害者が出そうだと思われ、「これは単行本にならないよね」と連れ合いと話して、その『文学界』を大切にとって置くことにした。ルサンチマンが溜まったときに発散できるし、言い放題のところが痛快だったりするので、彼の本はなるべく集めるようにしているのである。

ところが、1年後に単行本として出版される。出版社が幻冬舎と知って、そうであろうと思った。問題作であることを話題にして販売数を伸ばそうとする会社ならではセレクションである。まあ、それはさておいて、さっそく購入し本棚に積んでおいた。最近、気が晴れないので、ついでならどん底までいこうかと思って、その「悲望」を今日、読み返した。

小谷野(作中では藤井)は片思いしている篁(たかむら)さんにひどく忌避される。生理的嫌悪感ももたれているらしい。「もう神経が参っちゃって、生活ができないんです!郵便受けにあなたの手紙を見つけると、それだけでぞっとするんです。」(85)そして絶縁が突きつけられる。「私はあなたが嫌いです。」(86)

小谷野がここまでの対応を受けるには、彼にも責任があった。篁さんがどことなく隙を見せるというので、つい攻勢をしかけたのがいけなかったのである。まず、電話をかける。執拗な、しかも一方的に感情を書きなぐったラヴ・レターを何回も送る(ラブ・レターと通常の表記にせずにラヴと発音どおりに書いているのから判断して、内容が気取っていたのだろう)。篁さんに声をかけるとき、つい癖で肩に手をかけて接触する。篁さんの留学先まで追っかけて、ストーカーまがいのことをする。そして何よりも、篁さんがいるところでは、篁さんばかりを見つめてしまう。

こういう行動だけが篁さんを引かせるのではない。行動を起こさせる篁さんへの恋情が、同時に世俗的感情と重なっているというのも一因である。世俗的感情というものは雰囲気で伝わってしまう分たちが悪い。篁さんは美人である。東大の大学院で学ぶ才女、つまり知的でもある。家庭環境も問題はない。こっそり篁さんのお父さんの職業を探しだし、「有名な証券会社の常務取締役」(18)であることに安堵する。正真正銘のお嬢様である。これで「自分の出自の低さを、妻のそれの高さで補う」ことができる。(18)三拍子そろった篁さんを小谷野は好きになったのである。

恋愛するときは、誰にでもこういう世俗的な一面があろうかと思うが、小谷野はそれを臆せず堂々と開陳する。しかし、篁さんの側からすれば、美人は他にもたくさんいるのに面と向かってそう言われるのは恥ずかしいし、知的と持ち上げられても東大は才女ばかりなのにと思うとそう言うのを止めてほしくもあり、さらには、お嬢様であることに引け目を感じる必要はないけれど何の関係もない男から素性を調べ上げられるというのは気持ちが悪い。女は「イエス」に「ノー」と言う存在なのを小谷野は忘れていた。

それに、小谷野は事ある毎に文学に言及する。まるで、文学論をぶたないと先に進めないかのようである。これがまた、小谷野のスノッブを強調することになる。文学が死んだと言われる時代にこのような話を聞かされては、篁さんも、いくら文学研究をしている身であったとしても、うんざりするだろう。そう、篁さんは、文学研究は仕事、日常は別、と考える「文学は死んだ」派なのである。文学研究と日常の区別がない小谷野とそりが合わないのは当然だと思われる。

「悲望」はこういう小説になっていて、いかにも小谷野がキモい男だという印象を与える。篁さんの肩を持ってしまいがちになるのである。賢明な読者は、「悲望」からいろいろな教訓をひきだすことだろう。曰く、デートのときに文学の造詣の深さを吹聴してはいけません、ラヴ・レターなどという過去の遺物に囚われていては時代遅れとみなされます、やたらと女性の身体に触ったらセクハラになります、大学院に行くのは高学歴プアになるだけなので止めておきましょう・・・。

ところが妙にも、私は小谷野に感情移入してしまった。小谷野のようにキモい女に思われたいというファンタジーに囚われたのである。女だったら、どのようにすればキモくなれるのか、いろいろ想像力をはたらかせた。小谷野のようにストーカーになってもいい。でもそれだと、一人からだけしかキモく思われない。ちょっとインパクトが弱すぎる。では、オノ・ヨーコはどうだろう。彼女の歌声は多分誰にとってもキモい。とすれば、彼女の歌声を行動化すればいいかもしれない。ということは、KYであればいいのか。と想像を膨らませているうちに、今度は、いや、そんなことをしなくても、気づかないだけで、もう現実には十分キモいのかもしれないとも思い始めた。電車に乗るとよく前の人がメールを打っていることがある。あれはひょっとして、「キモい女が近くにいるのよ」と書いているのではと思った。

が、このように思っていることはすべてファンタジーで、現実に起こらないことを想定している。行動できないことを想像で補っているだけなのである。小谷野の足元にも及ばない、小心者ということになる。ダメ女の典型である。

と考えながら、これで「悲望」を読んで、どん底に近づいた気がした。だが、まだ底を打っていない。