安倍晋三

安倍普三(1)

ちょっと前まで私の関心を独占していたのはNHK番組改竄問題である。もちろん、関心が向かったのは、公共放送の中立性でも天皇の戦争責任でもない。NHKの中立性が揺らいでいる、と鬼の首を取ったかのような批判をしたところで、NHKがこれまでずっと体制寄りだったことはどうみても否定できないのだから、批判そのものが的をはずしている。天皇の戦争責任にしても、番組放送直後から関係者が改竄問題をNHKと民放連で構成される「放送と人権等権利に関する委員会機構」に申し立て、一方で法廷闘争も辞さず、ついには民間裁判から司法裁判に場を移し、間接的であれ天皇の戦争責任を問うていたのに、これら一連のことに全然触れずして、政治圧力があった・なかった、の事実認定のみを言い争う大メディアの欺瞞を見るにつけ、それが相変わらずの禁忌であることを再確認するだけであった。そもそも、昭和天皇の死後にしかこのような民間裁判が開けないという事実だけでも異常である。

ただ一つだけ、発見があった。それは改竄に関与したとみなされている中川昭一と安倍普三にみる政治家の資質である。私の見立てによると、安倍は政治家として今最も危険な男である。

中川も安倍も政界のプリンスである。2世、3世として地盤もしっかりしているので「どぶ板」イメージに集約される選挙苦労というのが前景化されない。学歴も申し分ない。中川は東大法学部政治学科卒業、安倍は出身こそ成蹊大学だが南カリフォルニア大学政治学科に留学し、箔を付けている。双方とも、外交でタカ派的発言を繰り返すという王道をしっかりとおさえ、あの若さで要職に就くなど次期首相を狙える位置につけている。言いたくはないが、容貌も悪くはない(高橋由伸が巨人にいるとハンサムに見える、というレベルではあるが)。どこから見ても2人は同じタイプの政治家なのに、中川は忌むべき悪、安倍は望ましい善、に映ってしまう。私たちは、いや、少なくとも私は、安倍に共感したい誘惑に駆られそうになる。

誘惑というのは、容貌の美醜、資産の多寡、性格の善し悪し、巧みな話術、などで決まる、と露にも思ってはいけない。彼が実際何を所有しているかは一切関係がない。彼はただ、
眼差す主体となればいいのである。

昨日、このブログの本体absolutewebのBBSで告知されていた井澤さん主催の批評会に参加すべく東京に行った。その時の飲み会の席上、解体社という劇団の上演で、ちょっとした騒動があったことを、これまた劇団クワトロ・ガトスの清水さんから聞いた。以下は私の推論である。

解体社は世界で同時多発的に起きる暴力について上演したのだが、一人の女優が上演中に反乱を起こしたらしかった。女優が顔を正面に向けて椅子に腰掛けている場面での事件である。演出家は、そのとき女優にモノのごとくただ座っているように、そのため視線を観客席中央あたりに、力を抜いてボーと焦点を合わさないように向けて欲しい、と指示していた。リハーサルではうまくいった。ところがいざ本番になると、女優はモノになれなかったのである。

その女優はユダヤ人で、これまで各地を転々とし、まさしくユダヤの民として生きてきた。であるからこそ、暴力についての上演中、それまでの生が頭のなかでめぐり繰り返され、彼女は上演に対してはからずも距離をもってしまったのである。それはそうであろう。彼女たちの生が、上演という表象空間のなかに回収されようとしているときに、正義とはこういうものなのか、それは東京ではなくパレスチナで発揮されるべきものではないのか、それとも紛争の証人として私がここに立つのは正しいことなのだろうか、と思ったとしても何の不思議もない。結果、彼女は上演に対する批評性をもった、すなわち上演と上演を観ている観客を眼差してしまった。舞台でひとり眼差す主体となったのである。

女優によって眼差された観客は当然、上演に集中できない。彼女の眼差しが気になってしょうがないのである。ということは、つまり、観客は彼女に誘惑されたのである。よって、予定通りの上演は不可能となってしまった。

この突然の事態をどう評価するのか。上演中に、リアルな、生の現実が立ち上がったと言うひともいよう。私はこのような見方に対して、そういった問題は演劇内部の問題であり、パレスチナ問題とは微塵も関係がないと言いたい。上演空間に批評性が組み込まれるということは、その批評性はあくまでも上演に対して発揮されているのであって、演劇がもし死に体になっているとすれば、批評性は浄化作用として機能するだけである。演劇はそれで生き延びることができる。

もうひとつの見方は、上演は表象なのだから、あくまでその形式を徹底すべきだというものである。形式主義といえば非常に高度な芸術タームに聞こえ、私も批判するのに勇気が要るのだが、演劇をあまり知らないという立場で言わせてもらえば、形式を徹底しさえすれば内容は何でもいいのか、という問題は出てこないのだろうか? いや、一歩譲って、内容が政治的であったとしても、その舞台での「政治的現実」は現実ではない、それを表象というのではないだろうか? そうだとすれば、あの女優が体現した批評性に形式主義者はどう応えるのか? 

05/02/26の日記に加筆修正

安倍晋三(2)

演劇だと私に分が悪いので、NHKで勝負してみたい。NHK報道は中立性を旨として、出来事をリアリズムの作法に則り伝える。それが鉄則である。ところがリアリズムはどの出来事を選択すべきか、というところまではカバーしていないので、紛争から殺人、結婚、季節の便り、スポーツ、ついでに中川と安倍の圧力も、ランダムに並べたてることが可能となる。手がつけられない無秩序状態である。この状態が高じれば視聴者から批判がくるのは必至なので、批評性が持ち込まれる。眼差す主体の登場である。

例えば、女性アナウンサーが、ルワンダの大虐殺にはたと涙を落とすのは、人間としてあるべき姿であろう。報道本来の姿勢は、事実を客観的に伝えることだろうが、私はこの大虐殺を既成事実としてさらりと流してしまうことができない。大虐殺の背景を説明し、悪の正体を告発し、今もなお続く非行に介入できないのだろうか? これが報道という形式の限界なのだろうか? ニュースを読むだけの私はモノといわずにして何なのだろう? そう彼女の涙は語っている。一方の視聴者は彼女の涙に釘付けとなり、なにか予測できない事態が起きつつあることを感じ、身体をこわばらせる。が、それはほんの一瞬の事件であり、彼女が「失礼しました」という詫びをいれることで、彼女も報道も常態に戻っていく。それで視聴者の緊張もとけていくのである。

彼女が見せる抵抗は、実はヒステリー者の抵抗とも呼ばれる。ヒステリー者は形式を司る大文字の他者(ここではNHK報道)との関係を問う者である。彼女は、私はあなたにとって何なのか、ただの道具にすぎないのか、と問い、他者に抵抗する。だからといって、他者への信憑性が揺らぐことはないのだが、彼女の激しいまでの抵抗は、他者に従順である者を不安に陥れる。彼らは彼女の一挙一動から目が離せない。この一瞬の抵抗の魅力に抗えるものは少なくない。この彼女の抵抗こそが眼差す主体の正体なのである。NHK報道という場に限定された彼女の抵抗は、しかしながら、どうしてもその批評性が局の浄化になってしまう。NHKもやっぱり人間だったのだ、私たちのNHKだったのだ、と勘違いされる、そういった効果をもってしまうのである。眼差す主体は宙に浮いてしまい、真に批評性が発揮されることはない。

眼差す主体がつきつける批評性を、演劇やNHKという表象空間の内部でのみ考えても納得のいく説明はできないと思う。唯一、説明が可能だとすれば、それは彼女がこういった表象空間に追いやられたことを問題視することだろう。すなわち、批評性は何故、野から追い払われなければならないのか?

この質問に答えられないひとがいようとは、私には到底考えられない。それは私たちの日常であり、日々体験していることだからである。眼差す主体は邪魔なのである。警察に物言う警察官はほされるだけである。職場で政治の話をしたら同僚に嫌われるし、学生に滔々と男性支配をまくしたてても「ぎゃあぎゃあわめくオバサン」(北田暁大フェミニストのイメージ)でしかない。文芸評論家斉藤美奈子の毒舌には定評があり、ファンも多い。だが、彼女が野に放たれれば、戸惑うひとも多いはずだ、ささやかな生活くらい見逃してくれと。だから、眼差す主体は居場所を求めて表象空間へと向かう。なぜそこかと言えば、彼女と彼女が向かう表象空間の利害が合致する、そういう時代だからである。

政治家に必要なのはメディア戦略である。中川と安倍の戦略を見ると、安倍の方が時代を読んでいるとしか思えない。

中川がある大学で講演しているのをTVで見たが、彼は黒のタートルネックとスポーツジャケットというコーディネイトであった。東大卒だから「知性」を装う資格はあるのだが、いかんせん藤原帰一姜尚中らの換喩的模倣である。コピーのコピーから鬼子が生まれるとでも思っていたのか。しかし、イメージアップにつながっていないのだから、いかなる意図があったとしても、失敗したといえる。政治は結果が大切である。

一方、父の時代から拉致問題に手腕を発揮している安倍は、それをもって、拉致って何? という態度しかとっていなかった自由民主党に対して、内部批判をしているかのように思わせるふしがある。いや、それは彼がメディアに出るときに演出される必須アイテムであるようにも思う。プリンス度の高さにこの巧みな戦略が加われば、彼のタカ派的政治姿勢の毒が抜かれたように見える。メディアに映る安倍をよしと見るひとも多いであろう、この男は何かやってくれるかもしれない、と(あり得ない)希望を抱きながら。では、彼が首相になったら? 恐ろしいことである。

05/02/27の日記に加筆修正