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去年12月末に風邪引いてから咳が止まらない。が、いつものことである。風邪がきっかけで咳が始まり、咳を私の弱点と見抜いて神経症の症状がそこにどっと集中する。大体半年くらいで収まる予定ではあるが、長期的に見れば25年以上繰り返していることでもあり、その意味で症状は治まらないとも言える。このような咳はヒステリー咳である、そうフロイトが臨床報告したのは100年以上も前のことであった。

フロイトは、身体が硬直、麻痺したり、声が出なくなったり、食べなくなったりするといった原因不明の症状に苦しむ患者たち1を診察していたが、なかでももっとも多く診察したのが、吐き気、つまり、喉元にピンポンのような球が詰まった感覚を訴える患者たちだった。その感覚をもじって、吐き気はヒステリー球によって引き起こされるという言われ方が主流となった。現在の内科医もよく使う表現である。原因不明の吐き気があるようだ、といって診察を受けると、内科医は「また、ヒポコン2かよ」と内心嫌がりながらも、「ヒステリー球ですねえ」と言って、いくばくか精神分析の知を披露する。ヒステリー咳はこのヒステリー球の亜種である。

原因不明なのでヒステリー咳は治しようがない。内科医や精神科医はとりあえずツムラカネボウ漢方薬を処方する。「副作用の心配がないプラシーボ3ですか」と私が嫌味を言うと、医者は「いいえ、実際効果があるんですよ」とトートロジカルな表現でとぼけることが多い。臨床室で、医者と患者はこんなこと話してるんだ、と想像していただければと思う。

ところで、ツムラカネボウ漢方薬と聞いて「アレ?」と思う方もいらっしゃるのではないだろうか。それって、婦人科で頻繁に処方されるヤツじゃない? そうなのである。月経困難症と呼ばれる月経や子宮に伴うあらゆる痛みや不快感の軽減を目的とするのがこれらの漢方薬である。

ということは、医者は喉元を月経や子宮と同じレベルで見ていることになる。喉元は月経や子宮とは機能が全く違う。しかし、喉元的なものは、月経的なものと子宮的なものに通底している、ということである。そして、喉元的なものは、月経的なものと子宮的なものに留まらず、偏頭痛や肩こりや過呼吸摂食障害へと変化してもいく。みんな原因不明の症状だ。こういったもの全ての根底に横たわるのを性的なものと呼ぼう、そう提唱したのがフロイトだった。

だから、例えば、性的なものを、月経的なものや子宮的なものに限定すること、こういった思考そのものが、男根主義の罠に嵌ってしまっている証左である。女を「女の身体」という「自然」に留めておこうという力学が働いているのだから。でも同時に、月経困難症が生じるのは月経的なものや子宮的なものが満足を得ていないから生じる、という発想も可能となる。極端な話、セックスすれば月経困難症が治る可能性もある、と言えなくもない。そう、この両義性こそが性的なものを特徴づける。

とすると、性的なものを満足させるために、例えば、生物としての種の保存という「本来」の目的を成就させるべく妊娠すればいい、という処方箋を書くひとがいるとすれば、そのひとは大きく的を外している。妊娠しても、神経症がなくなるひとがいる一方で、なくならないひともいる。妊娠は解決策にはならない。性的なものとはかくも複雑なのである。
私の咳が例年になく激しいものだから、清田も心配している。先日、夕食にと行った回転
寿司屋で清田がフロイトを持ち出して私を赤面させたのも上のような事情があった。フロイトのヒステリー患者ドラについての臨床報告によると、咳が止まらない彼女に対して、フロイトが「君は本当はフェラチオをしたいのだよ」と言ってみたところ、彼女の咳がピタッと止まったらしい。僕もフロイトにならって言ってあげよう、「おたく(私のことです)はフェラチオがしたいのだ。」シチュエーションに無理があったのか、咳は止まらなかった。


1 彼女たちはヒステリー患者と呼ばれた。
2 ヒポコンドリー=心気症と呼ばれ、病気ではないのに重病かもしれないと心配すること
3 心理的治療効果
05/03/08の日記に加筆修正