スカーレット・オハラ

どんなことについても、どんな人物についても、その風格と品格について語ることは可能である。しかし、何が風格で何が品格か、ということを見極めるのは難しい。例えば、映画『風と共に去りぬ』の場合はどうだろう?

風と共に去りぬ』(1939)は、超大作と呼ばれるにふさわしい風格をもっている。まずは、豪華キャスト。主演男優女優、助演男優女優は言うに及ばず、エキストラの数も半端でない。地面に寝かされた夥しい数の戦傷者のシーンなどは圧巻そのものである。また、歴史物に欠かせぬ時代がかった豪華セットは私たちを魅了しまくり、アメリカのどこを探しても見つからないような、しかし、きっとどこかに存在するに違いないと思わせる、そんなロケ地を舞台としているのもうならせてくれる。製作費もこれまた途轍もない金額だろうが、そんな卑近なことに思いを巡らせば巡らすほど、私たちは自分を恥じなければならない、このスケールの大きい映画を前にしては。そして、今日も世界のどこかで必ず上映されていて、見たことはなくても映画の名前なら誰でも知っている、その高い知名度アカデミー賞9部門を受賞。何度見ても飽きることなく、誰もが愛し続ける不朽の名作。賛辞は具体から抽象へと向かい、もうこれ以上、送る術がない。それが『風と共に去りぬ』であり、その風格である。

本映画の風格を語るのは、このように容易いことであるが、品格となれば、話は別である。『風と共に去りぬ』には、品格が、作家富岡多恵子が言うところの「それを見終えたときに、見る前よりも人格がたかまるようなもの」(「見」「見る」は原文では「読み」「読む」である。小倉千加子シュレーディンガーの猫』より孫引き)があるのだろうか。

私がかような疑問をもつのは、映画の結末がどうもすっきりしないからである。愛娘を亡くした後、バトラーは泣きながら引きとめるスカーレットを後にして、風と共に去っていく。残されたスカーレットには、髪を振り乱して泣きわめき、少なくとも1ヶ月は悲嘆にくれてもらわなければならない。彼女が立ち直るのは、当然その後に来るべきである。一人の女の波瀾万丈の物語はそういう結末を要請する。ところが、スカーレットはすぐさま立ち直ってしまい、“Tomorrow is another day”と決意表明をし、さらには故郷タラで一念発起を目指すという未来図まで描いてしまう。彼女の変わり身の早さには目を見張るものがある、それが私の偽らざる感想である。ゆったりと進むべき大河ロマンに、このいささかドタバタに見える結末は、うまく適合しない。

結末が期待をはずすと、奇妙なことが起きる。主演ヴィヴィアン・リー演じるスカーレット・オハラが、万人に必ずしも愛されないという事態が発生するのである。あのオードリー・ヘップバーンジュリー・アンドリュースも彼女たちの役柄とともに愛されてきた。あくが強い役を演じるグレタ・カルポだって、粋な女として尊敬を集めている。全ては、結末が期待通りに終わり、その予定調和が途中の奇妙な言動に意味の後付けするのを可能とするからである。大団円だと、女優は輝く存在となり、同一化の対象となりうる。ところが、ヴィヴィアンのスカーレットの場合、そうはならない。美しいのはいいとしても、あそこまでなりたくない、と多くの女は敬遠しがちになるのである。

「あそこまで」という思いが、彼女に対する手厳しい評価へとつながる。「嫌な女」、「炎のような女」、「我が儘」、「芯が強い」、「誇り高い」、「傲慢。」「芯が強い」や「誇り高い」性格だけを取り出せば好ましい人物かもしれないが、それが「傲慢」と同列に語られるとなると、文字通りに受け取ることはできない。「自分に正直であれば、バトラーだって去っていかなかったはず」との意見もある。

非難を受けるのは性格だけにとどまらない。行動までもがターゲットになる。ちなみにネット上のアマチュア映画評を参考にしてみると、スカーレットが香水入りの水でうがいをしたり、物不足の苦しいときにカーテンでドレスを縫う、といったシーンまでトリビアされ、彼女にはとてもついていけない、という論調が支配的となっている。同じくカーテンでドレスを縫うのでも、子供の遊び着を作ったジュリー・アンドリュース(『サウンド・オブ・ミュージック』1965年)が微笑ましく受け入れられているのとは、えらい違いようである。

スカーレット最後の決めセリフ“Tomorrow is another day.”も評価が、いや日本語訳が定まらない。「明日があるわ!」とか「明日は明日の風が吹く」とか「明日は別の日」とか。翻訳が本来難しいとは言っても、名セリフは訳語が定着するのが普通である。「君の瞳に乾杯!」(『カサブランカ』1942年)などは訳語として充分定着しているではないか。ここまでくると、スカーレットは一体何をやらかしたのか、と問わざるを得ない。

全てを解く鍵は、バトラーとの別離のシーンにある。去るバトラーを泣いて引きとめようとするスカーレットに対して、彼は次のような言葉を吐き捨てる。 “Frankly, my dear, I don’t give a damn.”(「正直なところ、どうでもいい」や「知らないね、勝手にするがいい」と訳される)。侮蔑に満ちた悪の言葉である。しかも、米映画協会が選ぶ名セリフ100選で1位に選ばれたくらいに、衝撃的言葉でもある。だからといって、バトラーはあれやこれやと言い訳もしなければ、撤回もしない。そのまま。しかし同時に、スカーレットはこの言葉を胸に抱いて立ち直るのだから、言語学的に言えば、高度に遂行型の言葉なのである。

悪の言葉が、「我が儘で」「傲慢」なスカーレットを立ち直せるとはどういうことなのか? これが、映画の奇妙な結末の要諦となる。ここが分からなければ、それまでの230分が台無しになる。なぜなら、この時点で、ソフォクレス描くところのアンチゴネーが、現代の装いとともに遂に戻ってくるからである。

ギリシャ悲劇『アンチゴネー』を要約すると、アンチゴネーはあの近親相姦で有名なオイディプス王の娘である。彼女には同じく近親相姦で生まれた兄が2人、妹が1人いる。兄2人は王座を狙って殺し合い、妹はヒューマニズムの仮面をかぶり、羊のように周りを気にする臆病者である。本作は、殺し合って死んでしまった兄の埋葬についての話となる。国に謀反を起こした側の兄を埋葬してはならない、人間として扱ってはならない、という国からのお触れに対して、アンチゴネーはその国の法に抗して、ただ1人で兄を埋葬する。その結果、反逆者として囚われの身となり、生きたまま墓に入れられるのである。社会的存在としては用無し、すなわち社会的な死と生物学的な死という2つの死の間という希有な時空間にいたのがアンチゴネーである。国に操られるのはまっぴらだとして、彼女は最終的に墓のなかで縊死を選択するが、それが彼女が生きた一瞬の2つの死の間という時空間を輝かせる結末となっている。

2つの死の間が輝くのは、それが自由への希求の本質だからである。社会的に死んだも同然の立場を選択するということは、その社会に入るのを拒む行為である。社会を拒めば、例えば消費を拒めば、あとは生物学的死しか待っていない。その生物学的死までの一瞬が社会からの自由(への希求)を表現するのである。

アンチゴネーは気高い。自由を希求する彼女のこの品格が、古代から今日にいたるまで人々を魅了して止まない。しかし、一体誰が彼女のようになれるというのか? だから、彼女は哲学思想の場に抽象として閉じこめられてきたのではなかったか? だから、北田暁大が「アンチゴネー的『行為』だって? もうたくさん!」(『ユリイカ』04/05)と哲学思想の道場破りをしようとしたのではなかったか(もちろん、彼は敗れたのだけれども)? 

アンチゴネーにはこのような疑問が常につきまとってきた。だが、近年になって、彼女を見直そうとする動きが出始めている。それが例えば映画『めぐりあう時間たち』(2002年)のジュリアン・ムーア演じる専業主婦ローラ・ブラウンだ。好きになれない家族、家庭環境、そして多分異性愛主義、そういったものとどうしても縁を切りたかったローラは、子供を生んだ直後に、全てを投げ捨てて家を出奔、息子が後年エイズで死ぬまで、社会の片隅で朽ち果てるように生きていく。と言っても、彼女の場合、社会は捨てきれず、拒んだのは社会からの承認である。それでもローラの意志の強さは、私たち聴衆に息をのませるのだが、如何せん、彼女はアンチゴネーを小型にしただけであり、だからこそ、「一体私たちの誰がローラになれるというのか?」という疑問を残したままとなる。

めぐりあう時間たち』の失敗は、ローラの人物造型にある。つまり、アンチゴネーにあったものがローラにはなかったのである。アンチゴネーには、父、それも具体的な父ではなく、具体的父が背負っていると思われる父性に対する忠誠がある。厳しいまでの規律をもって、子どもに社会の刻印を押す他者という存在に対する忠誠である。だから、彼女は、父王の正統なる息子が無惨にも見捨てられるのに我慢がならなかったのである。

父への忠誠、あるいは忠誠という名の愛、それをもっていたのがスカーレットである。最初は、生みの親である父、次には友人の夫アシュレー、そして風来坊のバトラー。3人ともスカーレットにとっては厳格なまでに揺るぎない父であるがゆえに、最愛なる父である。彼らがそういった他者としての存在だからこそ、世間が何と思おうと、彼女は父への愛のもと、「傲慢」だけれども「誇り高く」、そしてときには「我が儘」に生きていくことができる。スカーレットは父の娘であることによって、生きていくことができるのである。
「生きていくことができる」とは、実に思い言葉である。何故なら、フロイトが言うように、私たちにとって、「生きていくこと」の原点であるこの世界への誕生は、母との一体化がもはや許されない、最も辛く悲しい出来事だからである。偶然性に覆われているこの世界は掴みどころがなく、全てが可能のようにも不可能のようにも見える。だからこそ、この世界への参入を導く、この世界には禁止されていることがあると釘を刺す、そうやって世界を構造化し、「生きていくことができる」ようにしてくれる、厳格なる父が必要なのである。

しかし、スカーレットがいくら父に忠誠であるとしても、具体的父に彼女ほど愛着してよいものだろうか? 父親が死んだら、アシュレーに。アシュレーが死んだらバトラーに。父への忠誠と具体的父への愛着は違う。父が具体的父に体現されてしまうと、体現化された父は「愛すべき、好ましい父」(父親、アシュレー)か、何を考えているのかさっぱり分からぬ「不可解で」、性的にも「いやらしい父」(バトラー)にしかならない。忠誠の対象であるはずのものが、愛憎の対象としかならない。この微妙な差が、スカーレットを徹底的なまでに「傲慢」で「我が儘」な娘にし、自己中心的世界にしか住めない女にしてしまった。

バトラーはスカーレットのこの存在様式を見て取ったのである。「正直なところ、どうでもいい」というセリフは、彼女を見限って、ということでは全然ない。そうではなくて、バトラー自身が悪になることで、そしてその行為に何ら説明も言い訳もしないことによって、スカーレットから向けられる愛着を断ち切ったのである。スカーレットがアンチゴネーになれないなら、具体的父がスカーレットをアンチゴネーの立場に置くことしかできないのだ。

スカーレットは他者によってアンチゴネーの立場に追い込まれた。これまでの自己中心的世界とは違う世界に投げ込まれたのである。ここで、父の娘として、彼女はその立場を引き受ける。 他者が立ち去ることを、愛として受けとれる娘だけが、その行為を受け入れることができる。これが誠実に生きる、ということなのである。“Tomorrow is another day.”とはその決意表明であり、映画の品格そのものである。この品格を受け入れることができない者が「抵抗」をする。スカーレットを毀誉褒貶のなかに置く者たちである。スカーレットが自由への希求に目覚めたことを否定しようとする者たちである。今だ、「一体誰がアンチゴネーのようになれるというのか」と疑問し続ける者たちである。

現代にあって、アンチゴネーになることは極めて困難である。しかし、スカーレットにはなれるかもしれない。そのためにこそ、バトラーになる人物が求められる。忌み嫌われようとも、悪になることを甘んじて受け入れる存在である。その意味で「悪こそは未来」(ハイナー・ミューラー)である。