ジュリア・ロバーツ

ジュリア・ロバーツは、日本が大嫌いで、日本側広報の来日依頼も何かと理由をつけて断っている。傲慢な女優である。傲慢と言えば、私が思うにジュリア・ロバーツの上を行くのが、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ。女帝と呼ぶに相応しく、『シカゴ』(2002年)や『ディボース・ショー』(2003年)では、道徳心のかけらも持ち合わせておらず、ひとの心も踏みにじる傲慢な役になりきっていた。高笑いし、心の迷いなどどこにも見られない。私生活でもきっと・・・、そう思わせてくれる女優である。
その二人をしても、グウィネス・パルトロワにはかなわない。来日した際の彼女のインタビューはすごかった。

といっても、インタビューしたのはNHK番組の『英語でしゃべらナイト』。英語(=アメリカ)帝国主義を後押しする番組で、各界の成功者に英語でインタビューするというのが目玉商品である。目玉商品という陳腐さがNHKらしいとも言える。「私らしさ」が尊ばれる時代、成功者にあこがれるというのを前面にうちだすのは、成功したいひとにとっては恥ずかしいし、あこがれもないひとにとっては、どうでもよいことだからである。

時代が読めてない番組で、グウィネスはとんでもないことをやらかした。この番組、時代が分かっていないわね、と思える発言をしたのだった。インタビュー最後の決まりごと「英語を学んでいる視聴者にメッセージを」という質問に対して、「みなさんの住む日本には日本語があります。美しいことばです。英語の学習なんてやめなさい」と、笑いながらストレートに応えたのである。彼女の笑いを「笑い」ととるか「嗤い」ととるかで解釈が異なろうが、それでも成功者の立場から「わらって」いることには変わりない。「わらい」の場を深読みすれば、『英語を学べばバカになる グローバル思考という妄想』(2005年)を先取りした「啓蒙的」発言か、「あんたらに英語なんて話せるわけないし、話す機会もないんじゃないの?」という英語帝国主義国から来た者による「侮蔑的」発言、ということになりはしないか、テレビを見ながらそう思った次第である。

そもそも今のご時世、英語が使える人間は勝ち組に入っているだろうし、だから、英語へのあこがれをくすぐるこの種の番組は見ないと思われる。というか、単にそんな時間はない。楽しんで見るのは多分、負け組たち。そう考えると、グウィネス発言の真意は、富の二極化という現実を、時代感覚を失った番組を通して伝えることにあった、と言える。「妄想」を楽しんでいる間に、二極化はどんどん進むということだろう。ああ、“You are stupid.”(「あんたたち、何も分かってないバカね」)というグウィネスの心の言葉が聞こえるようだ。とにかく、番組とその視聴者が気づいているのに気づきたくない、そのような「無知」を告発してはばからない潔いまでの傲慢さを、カメラの前でもろともせず見せつけた女優である。あのジュリアさえ伝え聞くところによる傲慢さ、キャサリンのは映画の役所である。とてもグウィネスの「気風のよさ」とでも形容したくなる傲慢さには及ばない。

ところが、である。私はこういった傲慢な女優が大好きである。ただの傲慢であれば鼻つまみものである。だが幸運なことに、彼女たちには、傲慢さを相対化するような機会が与えられていて、それが彼女たちをこの上なく魅力的にする。映画である。

映画での役柄は何であってもよい。その役柄と映画のフレームの外にある傲慢さは当然ながら一致しないのだから。大切なのは、そこに生まれる二重性であり、これを体現するのが、映画のなかの彼女たちであるということだ。その二重性のお陰で、一瞬だけだが、彼女たちの傲慢さに影さすときがある。その一瞬がとても美しいのである。そして、その瞬間は、フレームの外にいる彼女たちにとっても貴重なものになる。だから、映画を通して「成長」できた、という発言がでてくるのも当然なのである。

傲慢さが相対化されるときの美しさ、それは相対化から生まれるとしても、何ものにも代え難い絶対的美しさである。この美を映画化したのが『ベスト・フレンズ・ウエディング』(1997年)で、主演はもちろん、ジュリア・ロバーツである。

『ベスト・フレンズ・ウエディング』は、昔の男が結婚すると知らされ、動揺したジュリアン(ジュリア・ロバーツ)がその男を略奪しようとするラブコメディである。ジュリアンは思いつく限りの方法を使って、意中の男マイケルを振り向かせようとする。だが、どうにも彼の目は婚約者のキミーしか追っていない。でも、ジュリアンにはそれが全く見えていない、ついでに傍から自分がどう見えるかも。まさに、傲慢の別称である自己中心的振る舞いに奔走しているのである。

奔走と言えば、この映画には、ユーモア溢れるシーンがある。それは、三角関係がキミーにバレたときで、三人がどう走ったか、というショットである。陽光差す緑の庭園で、失意のキミーが先頭を走り、彼女を追ってマイケルが走り、ジュリアンはジュリアンでマイケルを追って走る。ところが、ジュリアを追っている男は誰もいない。

実は、このショットこそ、絶対的美しさを表現している。自分の幸福しか考えていないながらも、ジュリアンがマイケルを追う姿は真剣である。一方、問題のショットは、ジュリアンが意中の男から好意をもたれてもいないのに、まるで好意をもたれているかのごとく錯覚して、見苦しくもジタバタしている有様をしっかり捉えている。この二重性を表象するのが緑輝く庭園であり、その美しさは、なんと言ったらいいだろうか。冴えない言葉で申し訳ないが、それは、自分の傲慢さを相対化できる契機を開いたジュリアンへの賛美である。

映画のラストシーンでは、ライバルのキミーと友人マイケルの結婚を心底喜ぶジュリアンを見ることができる。ライバルを称え、彼女の幸せを我がことのように思っているジュリアンがそこにいる。嫉妬などの複雑な感情はまだ消えていないだろう。しかし、そういう感情を内省できる、その力強さがジュリアンの笑顔に現れている。

19世紀には「ボヴァリー夫人は私だ」(フローベール)という言葉があった。読者が作中人物に同一化して、現実と虚構の境界線が曖昧になり、「私」はボヴァリー夫人を地で行っていると思えることを指していた。今、「ジュリアンは私だ」と言えるとすれば、それは、この近代的言葉の呪縛から放たれることを意味するのだろう。

05/02/27の日記に大幅加筆修正