八月


今年の夏は帰省した。清田の母の一周忌、初盆が重なり10日間という長めの帰省になった。私の父も他界して4年、母が一人暮らしているので4日間ほどは佐賀の方にも顔を出した。寂しく暮らしているかと思えば、ゲートボールに凝っていて、楽しい毎日を過ごしているようだった。清田の家も私の家も田舎の家なので天井が高く、そういう部屋にお盆用の提灯やお花や供物があって、ひっそりとしたなかに、義父や母の死者への思いが伝わってきた。初盆の迎え火を焚いたときはちょっと涙ぐんでしまった。8月は死をもっとも身近に感じる季節だと思った。

車で帰省した。片道800キロの道のり、それも帰省ラッシュ時期に重なる。しかし、他に選択肢はなかった。「若いとき(?)しか乗れないから」と拝みたおされて購入したレガシーに長距離を走らせたい、という清田が説明するよく分からない理由で、最初から他の選択肢がなかったのである。映画『渋滞』(1991年)の萩原健一の形相を思い出せば、車でなんて、という反論は即座に一蹴された。何事も経験だ、ということらしい。
それで、帰省中の道路で何かドラマが起こるのだろう、と思っていたが、そこではドラマは起こらなかった。普通の渋滞があるだけだった。ドラマは清田の「ああ!」という叫びとともに帰省出発一時間前にすでに起きていた。

出発一時間前といえば、準備でドタバタの真っ最中。そんななか、ガラスポットを落として、ガラスで両足裏をざっくり切ってしまったのである。台所はガラス破片と血の海。清田は「ああ!」としか声が出ない。一応止血をし、清田が落ち着くまでの間、台所を片付け、それから休日診療所に連れて行くも外科医がいないということで、別の病院にまわされ、その病院で待っていると救急車が入ってきて、1時間してからようやく診察してもらえた。4針ほど縫ったらしいが、それでも外科手術というらしく、治療費は結構お高かった。2人とも口数少なく自宅に戻った。

8月といえば、私のアルバイトが死のロードに入る時期でもある。今年の夏は慌ただしかったなあ、と一休みしながら思っていると、清田の「ああ!」という叫びがまた居間から聞こえてきた。8月29日晩11時頃のことである。

何だろうと居間に行ってみると、清田は新聞を読んでいた。TVがつけてあって、そこには広島原爆写真が次々映し出されていた。石灰化した死体や、石にこびりついたような死体、死体、死体の山だった。よくこんなのテレビが出せたね、と私はびっくりしたが、清田は「ああ、恐かった」と言って新聞を読みつづける。どうも悲惨な写真そのものが恐いのではないらしい。それで、何が恐いのかを問いただしてみると、次のような返答がきた。

松たか子は明治や戦前の役がやっぱりいい。ほら宮尾登美子も(NHKドラマ『蔵』1995年、同『櫂』1999年のこと)。金子みすずだって(TBSドラマ『明るいほうへ 明るいほうへ』2001年のこと、薄幸の童謡詩人で26歳で夭折)。あんなに楽しそうにしていたのに、急に原爆が落ちてきた。今は原爆ドームだけど。

解読が必要である。ドラマはTBS『広島・昭和20年8月6日〜その一瞬まで夢に生きた美しくもせつない三姉妹20日間の物語』。ちょっとセンチメンタルではないか、とツッコミたくなるのを我慢して、考えてみる。松たか子含む三姉妹は、その日、今でこそ原爆ドームと呼ばれている建物のなかで、楽しい会に出席していたようだ。戦時であっても楽しいことはあってもいい。実際にはしんどいことが多いのだろうが、それでも楽しいときがある。松たか子らは楽しくなるだろう未来を先取りして、それで現在のしんどさに耐えて楽しく過ごせていた。

こう考えることができるのは、カレンダー・タイムにそって私たちが毎日を過ごしているからである。明日もあるし、来年もあるし、10年後もある。時間はリニアーに進む、とカレンダー・タイムは保証してくれる。だから「夢」だって持てる。「努力」をすれば報われる「時」がくると考えることができる。「夢」を持つとか「努力」するとかそんなのこんな時代にできやしない、と思っていても、どこかでそれにすがりたくなることもあり、そうできるからこそ、私たちは生きていくことができる。

しかし、カレンダー・タイムは私たちが単に血肉化しているだけであって、それが本来の時間の在り方である、という保証は何らない。時間がパンクチュアルに進むこと以外には何も意味しないのがカレンダー・タイムである。それにどっぷり浸かっていると見えるべきものが見えなくなる。反対に、カレンダー・タイムにそって、都合のいい意味ばかりが付加され、物語が紡ぎだされる。

件のドラマは、カレンダー・タイム信仰を真正面から突き崩そうとした。明るく生きる三姉妹の時間を止めたのである。時間は止まることがありうる。それは、信仰している者にとっては、非情なことであり、「まだいい未来があったのにね」という類の発言があるとすれば、ピントがずれている。考えてみればいい、ずっと昼の2時の状態が続いたらどうなるか、ということを。具体像が持てない位の恐怖ではないだろうか? 松たか子は永遠に笑ったままである。(これをパロディしたのが映画『プレザントヴィル』(1999年))。

恐怖といえば、アウシュビッツ大量虐殺を生き延びたひとのくちにのぼる言葉でもある。今年のNHKは、番組改竄事件や青山学院大学高校部英語試験事件の余波もあってか、戦後60周年というのに、気合いの入った自社ドラマを作る勇気がなかったらしい。放映されたのは、BBC制作『アウシュビッツ』(2005年)だった。

アウシュビッツでは100万人以上のユダヤ人(政治犯やロマ族や同性愛者も)が虐殺されたとされている。終戦直前の虐殺の数は凄かったらしく、だから生き残った人々の証言に出てくる恐怖という言葉は実に重い。彼らにとって、死は確実にやってくる未来のある一点であり、彼らの生がそこに収斂していく。生き残るには、その点が、明日、明後日、へと先延べされる必要がある。彼らは結末を知っており、それに向かって刻々とカレンダー・タイムを生きていかねばならない。生き残った人々はこの悲劇的恐怖を体験した人たちばかりである。

時間が止まる恐怖と悲劇的恐怖、どちらが恐いと言うことは不可能だが、なんだか今の私たちはその両方を抱えているような気がする。目に見えるかたちで二つの恐怖を生きている人々もいる。そう考えると、「たしかに恐い。」清田にそう伝えた。