ジェーン・オースティン

今年は咳が激しいので、とうとう脇腹に筋肉痛がきてしまった。医者からは休養をとるように勧められている。咳によって生じる空気の動きは身体のなかで突風のごとき威力をもち、ときには肋骨にひびが入ることもありうる、と言われては仕方がない。素直に休養をとることとした。といっても、勤めにでているわけでもなし、何を休養すればいいのかという素朴な疑問もわいたが、とりあえずはそれをしていると咳が出てしまう、「それ」を止めてみた。物を書かないためにコンピュータの電源を入れなかった。関心のある本を読まないために趣味としての読書をした。それだけでは時間が余るのでDVDを鑑賞した。BBC制作の「高慢と偏見」、「知性と感性」、「マンスフィールド・パーク」で、原作はイギリスの小説家ジェーン・オースティン(1775−1817)である。
私はオースティンが大好きである。映画「ユー・ガット・メール」のメグ・ライアン扮する女主人公は「高慢と偏見」を200回読んでいるが、そこまでいかないにしても、学部時代は彼女の全作品を読んだ。お気に入りの「エマ」と「高慢と偏見」を読んで幸せな気分になったことが何回もある。作品のモチーフが婿捜しなので、「白馬の王子様がやってくる」という夢想に耽っていたのかもしれない。が、「白馬の王子様」の現実の姿は「白馬に乗ったキム・ジョンイル」よ、とやさしく引きとめてくれるのもオースティンだった。あちらに行ったり、こちらに戻ったりしながら、それでも何か大切なものがそこにある、と思っていた。その気持ちは今でも変わらない。

200年前といえば、日本では滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」が有名だが、現在馬琴を読んでいるのは学者くらいしかいないと思われる。オースティンにいたってはもっと悲惨で、多分学者さえも読んでいないという状況だろう。日本の殆どの大学の英文学部が健康科学部あたりに改組されて英文学が不必要になったし、学者もオースティン読解などでは昇進はおろか就職もできないからである。それだけではない。知的パラダイム・シフトが起きてしまった。私たちの関心が、テキストの意味を問うことから、ある特定のテキストが何故ある特定の時期にある特定の場所で生産されねばならなかったのかを問うことへと移行してしまったのだ。ために、テキスト内の語句をそのテキストの内的法則に従って解釈するだけでは、男根主義者! 植民地主義者! 人種主義者! ブルジョワ! という「ラベル」を貼られることとなった。つまり、テキスト生産の場を問うことは、学者の立ち位置、いやそれだけではなく、彼や彼女の生き方をも問うことと等価になったのである。オースティンどころではない。

かくして、結婚しているフェミニストって本当にフェミニスト? マルクス主義者がセルシオに乗っていいわけ? と生き方を問う質問が有効性をもつようになった。プライバシーと称して休養することが出来なくなったのである。生き方をプライベイトなものだとして隠すことが出来なくなったと言うべきか、隠れてよからぬことをコソコソすることが出来なくなったと言うべきか。あるいは、全てお見通しの時代になった、と言うべきか。公と私を区別するという「成熟」した生き方が通用しなくなった。さらに、正しいことを主張さえすれば済むと思っている学者ってアリ? エリートであることにあぐらかくエリートってなんなのよ! というエリート批判も可能となった。それは、学校や学会に裏打ちされた生き方を疑問視することや、啓蒙や進歩といった概念が崩れていくのと同義だった。そしてこれは、学者の世界に限ったことではなかった。

オースティンが文学として読まれなくなって、初めてオースティンが見えてきた、ということだろうか。彼女は一貫して生き方を問題にしていた。どう生きるのか、この口に出すだけでも陳腐に聞こえかねないことに表現を与えようとした。彼女は地位や財産など社会的なものに沿う生き方には目もくれなかった。と同時に、個人の判断力にも尊敬を与えなかった。彼女の主人公たちはいつも間違っていた。かわりにオースティンは主人公たちに何かを見つめさせた。それは、「私」でもなければ、「私」が作った「社会」でもなく、それらを超えるものとして提示された。それのまなざしのもと主人公たちが生きていければ、彼女はそう願っているようだった。それは絶対者としか呼びようのないものだった。
彼女の小説構成は全て同じである。適齢期の女がステキな運命の男に出会い、それをきっかけとして自らの偽善や傲慢さといった欠点に直面する。しかし、落胆するなかれ。彼女は、男の導きのもと欠点を克服して、最終的に彼と結婚する。つまり、絶対者が男に、女主人公が将来結婚することになる男に具現されている、ということである。これがオースティンの魅力であった。そして、同時にそれは、彼女の不幸でもあった。絶対者は、人間という有限な存在に具現されている、というだけではなかった。彼は社会の利害にまみれている存在でもあったのである。彼女は、絶対者を地上に降ろしたが、それゆえに、地上に降り立った絶対者は不完全な存在となった。彼女はそれに目をつむった。

上のことを、女性史に位置づけたらどうなるだろうか? オースティンの主人公たちは、読書をし、手紙を書く女たちである。知を身につけていった彼女たちは、しかしながら、時代の制約もあって、知を思う存分に使うことが出来なかった。オースティンはそういう彼女たちに、せめてもの救いとして、時代を生きていくための場を与えた。賢い結婚である。そして、その後、彼女たちに訪れるだろう悲劇については口を閉ざした。描かれなかった彼女たちの結婚生活や夫の背後にある何かに気づくのは、彼女たちの娘であり、それがブロンテ姉妹だった。あれから200年である。
05/03/10の日記に加筆修正