母と息子、あるいはアーシュラと『ラベンダーの咲く庭で』

私の連れ合いはおもしろい言葉を拾い出すのがうまい。先日はこんな言葉をネットから拾ってきた。「私と弟へのお母さんの扱いは違うような気がする。弟だけを特別にかわいがってるってことない?」娘の不満に母親はこう説明した。「あなたも男の子を産めば、私の気持ちが分かるようになるわ。」説明にならないような説明で、娘は納得がいかないらしい。
娘の不満はなんとなく分かる。例えば、ファミレス。若い母親が幼い息子を世話しているとき、彼女の表情には、しぐさには、なにか特別な、優しいものが感じられる。息子が唇をよごしたとき、彼の唇をきれいにする母親の手の動きなど、つい見てはいけないものを見てしまったような、うらやましい情愛のひとときを作り出している。

もうひとつ。冬から春といえば、大学受験・入学の季節である。それらの行事で娘に付き添う母親には、娘一人では危険という防犯や保護という意識がありそうだが、では、息子に付き添う母親が同じ理由をもっているのか、と考えてみると、常識的には到底そうとは思えない。そもそも、この年頃の息子は、母親を邪魔くさいと思っているはずだし、母親に防犯・保護意識があったとしても、それさえうっとおしいと思っていると推測する。母親にしたって、そういう息子の心理は当然知っているわけで、となると、今年の受験シーズンに私が目撃した新横浜新幹線プラットフォームでの母親と息子という「カップル」の群れを説明するのは難しい。母親は、息子の心理を知っていながら、なお、文字通り、身体を寄せて付き添っていたのである。

母親の子供への愛情はふつう、母性本能と呼ばれる。件の娘が問題にしたのは、母性本能が母親に生来備わっている云々ということではなく、母性本能の表現が子供の性別によって微妙に違う、ということである。普段から人間関係にもまれている娘は、こういうものに敏感なのである、一方、息子はどちらかと言えばこの方面にはナイーブで、あまり違いを感じないものだ、と言いたいところだが、マザコンという言葉の広汎な流布が、母親から息子に向けられる愛情のなかには何か母親が手放せないようなものがあり、息子もそれに応えてしまう、ということを示している。娘も息子も「ある」と分かっていながら名指しできないもの。あるいは名指ししてはならないもの。そういうものが息子に向けられる母性本能に存在する。

仮に「それ」をXと呼んでみよう。Xらしきものを整理しようと試みたひとは、ここ2,30年では、私の知る限り、アメリカの学者ナンシー・チョドロウである。彼女は著書『母親業の再生産』(原著1978年、翻訳1981年)で、保育が母親によってなされるのは何故か、と問いを立て、それは母親(性別は無関係だが、女が圧倒的に多いことは明記されていたと思う)が、自分も女の子として育てられ生きてきたから、それが参照項になって、娘の保育はやりやすく、そうやって育てられた娘が母親業を再生産していくのである、と(シンプルながら)結論づけていた。

ところがである。チョドロウによれば、息子の場合、自分の経験というマニュアルが効かず、母親は文字通り、戸惑い、困ってしまうそうなのである。それは、保育に試行錯誤が入る余地がある、ということを意味しており、だから、母親業は息子によっては再生産されない。チョドロウの議論はここまでだが、私が注目したいのは、母親の息子への「戸惑い」である。一時期盛んに読まれた同書によっても、この部分はXに止まっている。

チョドロウの筆を鈍らせたXではあるが、それは何も難しいものではなく、日常生活でも煩雑に観察されるものとしてある。恋愛はそのひとつである。男が理想の相手として、家事に長けて、自分を甘やかしてくれる懐の深い女がいい、と言うとき、それは一般に恋愛では母性本能も求められることがあると解釈される。ここのところを、ラクしようという魂胆が透けるとか、企業社会や日本社会一般がそういう心性を育むのだとか、果ては日本の「伝統」だ、と一般的かつ簡単に片づけてはならない。そのような方向であれやこれあやと恋愛を考えるひとは、Xに蓋をしたい、しなければならないと、真の意味で強迫的に振る舞っているのである。恋愛に母性本能も求めるというところにこそXの正体が隠されてもいる、ということから目を逸らすのを、生きていくための条件としているのである。とはいうものの、Xを言い当てるには、そしてXに直面するには、コペルニクス的転回とは言わないまでも、少なくとも斜めから見ようとする勇気が必要である。

それをやってのけたのが映画『ラベンダーの咲く庭で』(2005年)である。セッティングは、第2次世界大戦を前にした1930年代、イギリスのとある小さな町で、まだ穏やかな日々が送れていた頃である。主人公は、親も子もいない姉妹、姉のジャネット(夫とは死別)と妹のアーシュラで、2人とも70代。ベテランでありながらも脇役として活躍してきた、どちらかと言えば地味な女優であるジュディ・デンチが姉を、マギー・スミスが妹を演じる。姉妹が暮らす家は町から少し離れた海に面する険しい岸壁のそばにあり、庭にはラベンダーが咲き誇る。平凡と言えば、あまりにも平凡である。

そんな暮らしのなかで、ある嵐の翌日に事件が起きたことから、姉妹に、一生に一度の慎ましいながらも輝けるインディアンサマーのような美しい日々が訪れる。前日の嵐で難破したのか、若い男が近くの海岸に打ち上げられたのだ。男は20歳くらい。容貌は、原作(ウィリアム・J・ロック著、1863−1930)によると、「神からの贈り物」(30)としてまさに「魅力はたとえようのない美しさ」(10)をたたえており、敢えて表現しようとするなら「若いギリシャ神」(10)、と姉妹の目には映った。現在ではあまりにも整いすぎてモテない容貌かもしれないが、当時の老女姉妹には目が眩むような美しさであり、少なくとも妹のアーシュラは、その瞬間に心を奪われる。姉妹は、慈愛の心とともにその美しさに動かされて、男の回復に努めることにする。

さて、若い男は足を骨折していることが判明。次には、英語が分からないことも。ということは、介護が必要で、言語以外のコミュニケーション手段も必要となる。2つ合わせて、ボディ・ランゲージが重要になるのは事の理。そうやって、姉妹は心を尽くして介護していく。その途中で、男が、ヴァイオリンの名手であることも分かり、彼の株はますます上がっていった。介護にも当然、力が入る。その様は、母親がかよわきながらも才能のある息子をいたわるように映る。年齢から考えると、姉妹が男と関係を結び方法は、ふつうの意味での母性本能に媒介されていると見るのが自然であろう。

しかし、妹のアーシュラはそうではなかった。最初は母親のごとく接していたふしもあったが、ボディ・ランゲージを積極的に重ねていくにつれて、若い男に対して恋愛の情が生まれてきたのである。2人の間にボディ・ランゲージがあるということは、アーシュラの恋愛はプラトニックではない。相手の体を触りたい、抱きしめたいという性的欲望があるということである。老女が20歳の青年に性的欲望をもったということである。実際、彼女は、青年の髪をカットしたときに、そのカットした髪の一部を密かに宝物にしていた。
老女と20歳の青年という年齢差は、2人の関係を母親と息子の関係に、母性本能の表現に容易に横滑りさせることを可能にする。映画はこの「常識」を逆手にとり、母性本能を隠れ蓑として性的欲望を表現している。言い換えれば、性的欲望は母性本能という代理表象を一部ながらとる、ということである。それが本映画の核であり、老女が性的欲望をもつことは美しいこととして表現されている。

映画の核を、上の一般の母親と息子の関係とともに考えてみれば、母性本能には必然的に性的欲望が組み込まれている、ということになる。これまでは、息子に対する性的欲望はタブーとされてきたので、それは様々な代理表象をとり(大学受験や入学に付き添う、叱り方が娘と異なる、やけに面倒をみたがる等々)、母性本能として一般化されてきた。ところが、本映画は、近親相姦というタブーを破って、その母性本能に性的欲望が組み込まれていることを明らかにした。そう、母親は息子を社会的人間になるようにだけではなく、自らの性的欲望の対象としても育てているのである。

そう考えれば、恋愛に母性本能が絡んでくるのも説明がつく。女も母性本能を表現するかどうか迷うところであるし、男も母性本能を求めるかどうか迷うであろうと察する。ついでに言えば、嫁、姑の争いがなかなか絶えないのも、それが夫=息子という性的欲望の対象をめぐる争いであるからだろう。

『ラベンダーの咲く庭で』を紹介してくれた知人によれば、この映画を見た若い女性のなかでは反応が分かれたそうで、知人のように「感動」したひともいれば、「気持ち悪い」とあからさまに映画を拒絶したひともいたらしい。タブーに拘わる問題だから、当然の反応で、予想のつくことである。ちなみに、本映画が製作されたイギリスでは、彼の地の母エリザベス女王が号泣したと伝えられている。3人の息子のうち2人が結婚でつまずいたという家庭事情を持つ女王である。彼女の涙が、前者の「感動」型に属すのは言うまでもない。

問題はその先にあり、このような映画が製作されたこと、そしてそれに「感動」したひとが出てきたこと、つまり、近親相姦のタブーが無くなることを歓迎するとまではいかないが、少なくとも関心を示す動きが出てきたことをどう見るかということだ。私は、観賞後、なんとも評価が付けにくい映画だが、点数化すれば7・8点(10点満点)とかなり高い評価を与えることを、連れ合いに伝えた。私も「感動」型なわけだが、それについては、何かきっかけがあれば書いてみようと思う。