チェ・ゲバラのコスプレ

ニュース番組が、石川県にある美術大学が変わった卒業式をする、ということで、その映像を流していた。卒業生がコスプレして卒業証書をもらうことが変わっているらしい。もっともこれは大学や卒業生の見解で、私はと言えば、卒業生が手作りのコスチュームを気合を入れて身に着けている、という感じがビシビシ伝わってくるし、コスプレを見てニコニコしている学長までいて、その双方のベタさにちょっと引いてしまった。コスプレはサブカルチャーとして、既存の社会制度に抗うカウンターカルチャーと同列に語られることが多い。つまり、カウンターであるということは、サブカルチャーが、社会的承認を得ておらず、ときには嫌われ、卑しめられる存在であり、裏側から言えば、そういう反応を得るくらい社会を脅かしているということだ。と考えれば、社会制度の最たる表現である儀式において、コスプレがこうも歓迎されていることに違和感を抱くのも道理だろう。そう、私は、この美術大学ではサブカルチャーがメイン化しているという印象を強く持ったのである。

だからといって、サブカルチャーがメイン化してはならない、と頑なに主張していこうと考えているわけではない。あるサブカルチャーが全面的にメイン化していることもあるだろうし、サブカルチャー面してちゃっかりメインカルチャーとしての恩恵を受けている例もあろうと思う。あるいは、サブカルチャーメインカルチャーも、もうそれぞれを区別することはできないのかもしれない。こういったことは避けることのできない文化の変容だ。ただ、今回の件で私が興味をそそられるのは、先の卒業生たちが「変わったことをしている」という意識に高揚している意識である。卒業式という社会制度にサブカルチャーをぶつけた自分を褒めてあげたいという意識である。当の大学が卒業式でのコスプレを認めているのだから、サブカルチャーもなにもあったものではないと思うのだが、卒業生たちにはこのようなメイン化という部分がまったく視野に入っていない。この意識が何であるかを考えてみたくなったのである。

コスプレしている卒業生のなかで一番長くテレビ画面に写っていたのが、チェ・ゲバラに扮している男子学生だった。チェ・ゲバラといえば、1960年代後半ごろから現在にいたるまで若者のカリスマでありつづけるマルクス主義革命家である。過激なまでに行動主義を徹底し、理想を追い求めた彼の生涯の詳細は、しかし、若者にはあまり知られていないらしい。知られているのは、Tシャツやポスターなどにプリントされた彼の肖像画だということだ。確かに肖像画は、革命闘争に身を投じ、そして最後には処刑されるという悲劇を自ら引き受けた「世界で一番格好良い男」(ジョン・レノン)をうまく捉えている。つまり、(あまり知られていない)人生も格好良いし、顔もまた格好良いのである。

このゲバラのカリスマ化は、今冬公開された2本の映画でさらに進んだようである。第1部『チェ28歳の革命』と第2部『チェ39歳別れの手紙』。両方を見て、彼の人生が分かるようになっていると思われる。思われる、と言うのは、私が映画を見ていないからである。それで、タイトルにある年齢で内容を推測するに、多分、第1部では、ゲバラフィデル・カストロとともにキューバ革命(1954)を成し遂げる過程が描かれ、第2部は、ラテンアメリカにおける革命の拠点としてのボリビアでゲリラ戦を繰り広げ、最後にはその地において銃で処刑される(1967)までを扱っている。処刑される直前の言葉が、銃殺する兵士に向かって言った有名な「ちゃんと狙って撃て」である。もちろん、効果を狙って映画で使われているはずである。

件の男子学生もこれらの映画(の宣伝)に触発されたのかもしれない。しかし、常識で考えれば、ゲバラをコスプレするというようなことは、よっぽどでない限り起こり得ないはずである。ゲバラマルクス主義革命家であり、現在の政治経済地図における彼の立ち位置は、危険極まりない。だから、彼の思想は時代錯誤として貶められ、行動にしてもその情報は制限されなければならない。普通の人々にしたって、自分たちの安寧な生活を脅かす危険分子の思想や活動に好意を示すことはないだろうし、そもそもそんな輩を格好良いと思わないだろう。大衆に追随するメディアにいたっては、イラクフセインを悪の権化に仕立て上げたような報道をするか、あるいは完全無視のはずである。どの方向から考えても、ゲバラがポピュラーになる要素などどこにも無いのである。それなのに、あの男子学生は肖像画に似せてコスプレするし、テレビはその彼をイケてる卒業生として一番大きく取り上げたのである。これはどういうことか。

答えは簡単である。ゲバラが理想とした共産社会を誰も望まなくなってしまったからである。ゲバラの思想が現実化するとは誰にとってもあり得なくなってしまったからである。言い換えれば、ゲバラの欲望を欲望する人々がいなくなったのである。だから、ゲバラの容貌に関しては、ゲバラ−欲望=イメージとしての肖像画という公式が、人生に関しても、ゲバラ−欲望=イメージの集積としての映画という公式が成立する。いまやゲバラは、欲望という猥雑なものから切り離されたイメージになり、同一化できる対象となったのである。それと同時に、ゲバラに関するカルチャーはサブからメインへと移行する。イメージとして安全なゲバラが、人々から忌み嫌われるサブに留まる必要がどこにあろうか。

このようにして、ゲバラは格好良いマルクス主義革命家というイメージをもつ人物になった。革命家を気取りたいのであれば、ゲバラ肖像画のようなコスプレをしたらいいのである。臆することはない。それに、このようなイメージへの同一化は今のメインカルチャーでは盛んに行われていることである。着物が流行ったら着物を着るというのも、アニメのコスプレも、ファッションモデル香理奈に憧れるのも、どれもこれもイメージへの同一化だ。変に思う者はどこにもいない。

石川県の美術大学の卒業生たちのコスプレはイメージへの同一化である。だからこそ、あのコスプレはメインであって、サブではない。彼や彼女はなにも変わったことをしていない。変わったことをしていると誤認できるのは、欲望を欲望していないことを忘れてしまって、その結果、イメージに同一化しているだけであることが分からないからである。卒業生たちが滑稽に映るのは、このからくりに無頓着だからだ。別の方向から言えば、確信犯的にイメージへと同一化する人々と違うのはそこである。後者は、確信犯的であるからこそ、その背後に確信犯的であらねばならないと駆り立てるものをもつ。それがある対象への欲望である。サブカルチャーはこの欲望が息づいているところに生まれる。