フェミニズム言説がL文学化する−(1)−

フェミニズム言説が『L文学』になった。」こう断定するのは尚早すぎるだろうか。もし、尚早にすぎるとしても、「『L文学』になりつつあり」、やはりその流れは止められない、と考えるべきではないだろうか。それくらい、フェミニズム言説のL文学化は進んでいるように思える。
2002年、文芸評論家の斎藤美奈子はある一群の言説に「L文学」という呼称をつけた。詳細は後述するが、彼女の説明にそってL文学を簡単に言えば、「女性を元気にする文学」で、Lは「レディ、ラブ、リブ」の頭文字をとったものである。つまり、L文学は、作者、主人公、読者層の中心が女性であり(「レディ」)、題材を愛にまつわる出来事とするリアリズム小説を機軸としながらも(「ラブ」、「リブ」)、マンガやテレビドラマといった小説以外のメディアとも関連性をもつ、女性を応援する幅広い言説のことを言うのである。
なんだ、それなら、フェミニズム言説と重なってもなんら不思議はないだろう、と思われるかもしれない。フェミニズム言説は、その多くが発信源も発信内容も発信先も女性で、社会における様々な性差別を指摘し、解消する手立てを提案する。愛にしても性差別と無縁ではなく、それどころか、その主な温床ともなっている。フェミニズム言説が愛を放っておくはずがない。そして、射程範囲には文学はもちろんのこと、男女が関わるものや場全てが入っている。L文学と相似形を成しているようにみえるのも無理はない。
しかしこういった見方は、それまであった(今もある)言説と変容しつつある言説を同列線上でみようとする視点に立脚している。そうであるならば、斎藤にしてもわざわざL文学という呼称を作り出す必要はなかったわけで、既存の「女性文学」や「女流文学」で十分事足りていたはずである。にもかかわらず、L文学という呼称を必要としたということは、従来の呼称では言い尽くせない新しい言説の誕生を無視できなかったということだ。フェミニズム言説も文学と同様で、少なくともその一部が新しい位相に入ってきていると私は考える。いや、控えめな言い方はよそう。雪崩を打つように入ってきたのではないかと思う。その位相がまさに、L文学と重なるのではないか、と言っているのである。
文学的想像力とフェミニズムイデオロギーが一致する事態とはどのようなものなのだろう。そしてそれは、フェミニズムをどこへ向かわせるのだろう。本論は、この2点をめぐる試論である。