小児性愛

最近、淫行条例や児童ポルノ法のもと逮捕されるひとが増えてきた。これは、未成年者や小児を大人の性的行為から守る法律が整ったため、それまで見過ごされてきた行為が刑罰の対象となってきたからでもあるし、また、性的欲望の権利を求める近年の運動の高まりによって、それまで抑圧してきた自分の性的欲望にようやく気づき、さらにはその性的欲望を満たしたいという気持ちが芽生えてきたからだとも言える。

でも、小児性愛者が性的欲望を満たしたら、それが即犯罪になる、というのでは悲しすぎる。なんといったって、性の楽しみが摘まれるということだから。それに、その性的欲望は愛の表現かもしれず、そうであるとしたら、愛の告白さえままならないということになる。それだけではない。罰も特異である。逮捕されたら、刑を受けるだけでなく、自分の個人的なものであるはずの性癖がニュースや新聞や雑誌を通してみんなに知られ、それからはずっと、好奇の視線に晒され続けなければならない。裸で往来を歩くようなものである。こういう状況に、当事者も相当に悩んでおり、ゲイ・ムーブメントのリーダーである伏見憲明のところには切実な相談の手紙が来たという。

「私は二十八歳の同性愛者です。というか、同性愛ではあるのですが、大人になる前の少年が好きなのです。けれど、実際には少年との性行為を行ったことはありません。それがいけないことだというのはわかっていますから、自分で必死にその欲望を抑えています。しかし、もうそれも限界に達しているのです。なんとかできないものかと、成人したゲイの男性と関係を持とうとしたこともあるのですが、そうした相手ではまったく興奮することができず、結局、行為は成り立ちませんでした。最近では、ふと気がつくと、街で好みの少年のあとをつけていたり、もう少しで声をかけそうになっている自分にハッとします。それと同時にぞっとします。いったい私はどうしたらよいのでしょうか。なんとかならないものでしょうか。本当にもう子供に手を出してしまう寸前なのです・・・・・・。」(伏見憲明『欲望問題』6)

プライバシーの問題があるので伏見が多少脚色したらしいが、それにしても小児性愛者の苦悩がよく伝わってくる。彼や彼女は自分の性的欲望がすなわち犯罪であることだけから悩んでいるのではない。その苦悩は、自分の性的欲望が犯罪である、ということをすでに全面的に受け入れていることからも生まれており、いかに社会的制裁が私たちの心に内面化されているかを示している。犯罪なのにどうしてこういう欲望をもってしまったんだ、と認識が転倒した監獄に住んでいるのである。

あらゆるひとの性的欲望の権利は保障されるべきだという認識は近年になって高まっている。それには、LGBTレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)の運動が貢献したに違いないし、セクシュアリティを研究するフェミニストの支えもあったことだろうと思う。だから、NHK教養の番組「ハートをつなごう」のような多くの人に訴える啓蒙活動(ゲイ・レズビアンLGBTの特集があった)が可能になったのだろう。

しかし、そのLGBTにしても、同じ性的少数者でありながら、小児性愛者については寡黙である。例えば、その番組では、小児性愛者についてはひとこともなかった。著作などを読んでも触れられることは全くない。悶々としていたところに、昨年、伏見憲明が『欲望問題』で小児性愛者が抱える問題を取り上げていることに気がついたのだった。同じ性的少数者として小児性愛に触れないのは偽善である、と思ったのだろうと勝手に解釈している。しかし、その自分の心に正直な伏見にしたって、先の相談には、「情けないくらい陳腐な言葉」(12)しか返せなかった。彼はこう書いた。

「つらいお気持ちはわかりましたが、ぼくには何も言うことができません。ただ我慢してください、としかアドバイスのしようがないのです。なぐさめにもならないでしょうが、例えば、同じ悩みを持つ仲間と胸襟を開いて話してみるとか、少年愛の同人誌に参加してみるといったことを、とりあえずしてみたらいかがでしょう・・・・・・」。(12−13)

こうなると小児性愛者について知るしかない。そう思って、ヤコブ・ビリングの『児童性愛者』を読んだ。ノンフィクションという同書の性質上、小児性愛者の様々な思いがレポートされていると思ったからである。しかし、内容はそれとは逆で、小児性愛者を犯罪者として立証するために仮面捜査に入ったことの一部始終が書かれているだけだった。

しかし、『児童性愛者』の方向は社会もまた向かっている方向である。朝日新聞の報告によると、子どもの性被害が日本でも増えてきていることから、どう対応していくかという体制づくりを求める声が上がっているらしい。「警察庁の統計では07年に20歳未満の子が被害者になった強姦・強制わいせつ事件は4791件、児童買春・ポルノ事件の被害児童は1419人。表面化する事件だけでもこれだけある」ということだ。(2008・12・3)

被害状況が悪化していることが明らかになると当然、法の整備が急がれることになる。現在、小児性愛者に唯一(と言えるかどうかは自信がないが)許されているものがあるとすれば、単純所持である(奈良県を除いて)。個人の趣味として小児ポルノの映像や絵や話やアニメやゲームなどを楽しむことである。しかし、この単純所持も、原則禁止にしようと昨年の5月ごろから議論されているところである。

つまり、小児性愛者の性的欲望はますます犯罪色が濃くなってきているのである。それとは逆に、彼や彼女を救おうとする動きは以前としてない。

では、小児性愛者の性的欲望の権利はどうなるのだろうか?

権利は保障されるべきだと私は考える。だから、彼や彼女の性的欲望をはなから犯罪と決め付けて物事を決めていくことには首肯しない。また、彼や彼女にしても認識の転換をするべきで、犯罪的な性的欲望を持っている、というのではなく、自分の性的欲望は大切なものだと思ってほしいと考えている。また、私たちも大切なものとして扱うべきであろう。

その上で、権利の行使は単純所持以外にはすべきではない、と思う。大人と子どもの力関係は権利の行使を暴力に変えてしまう。それに、性的行為は子どもにとって未知の世界のことであり、もしそれが暴力とともになされたら、子どもは甚大な精神的トラウマを抱えることになる。こういったことは、なんとしてでも避けなければならない。

こういったことを前提として初めて、小児性愛は大人のなかではごく真っ当な性的欲望として語られるはずだと思う。それだけでも、小児性愛者の苦悩は軽減されるのではないだろうか。