フェミニズム言説がL文学化する−(5)L文学とは何か−

さあ、L文学の条件を整理してみよう。名付け親、斎藤美奈子によると次のようになる。

 L文学――それは少女小説を遠い祖先とし、言語文化においてはコバルト文庫を踏襲し、物語内容においてはリブの感受性を受け継ぎ、先行するコミックやドラマやポップスなどの養分を吸収し、なんやかんやのあげく、九十年代の後半に顕在化した最後の「L」といえるだろう。(111)

本論にそって言い換えれば、L文学は、大人ではない女の子のための文学である。年齢は関係ない。50代の女性だって十分に女の子でありうる。13歳であっても女の子でないことがありうる。性別も関係ない。千野帽子なんか女の子の感性を全開にしているではないか。年齢や性別が関係ないとすれば、何をもって女の子と言えるか。

そのヒントとなるのが、これまでの女の子の文学に対する評価である。文芸評論家小林秀雄はかつて吉屋信子の作品を評したことがある。(『文学界』昭和11年)その時彼が使ったのが、「女子ども」の文学という言葉だった。これは明らかに蔑称であり、女の子の文学が「大人」の文学に遥か及ばない粗悪品であることを意味している。小林にとって、吉屋の作品は、女だけで何かこそこそしている様子を描く、なんとも胸くそ悪いものだったらしいのである。つまり、小林が批判したかったのは、吉屋が生涯を通して描き貫いた、結果としては男性が排除される、女性同士が交わす友情だったと言えるだろう。この女性同士の関わり方、これが巨匠には我慢ならなかったと私はみている。

つまり敷衍すれば、女性が、女性のために、女性にしか分からないことを書いて、そしてそれが女性に読まれる、これがL文学の第一条件となる。ここに及んで、「女性にしか分からないことって何?」と思われる向きもあるかもしれないので、再度説明すると、それは、女の友情、経済的自立や性的自立などリブ運動が女性特有の問題として指摘したものなど、である。女の友情は小林秀雄にも分からなかったし、まして結婚と仕事の両立に悩むなんて、普通の男性には分からないでしょう。

そして、第二の条件は、こういったことをあけすけに、「オシャベリ文体」で語る感覚をもっていること。例えば、同じ女性の連帯について、駒尺喜美が評論文体で語る(『吉屋信子』1994年)のと、角田光代が『対岸の彼女』(2004年)で日常の文体で語るのでは、読者の距離のとり方が違ってくる。もちろん、評論と文学という違いはある。だが、違いはそこだけから来るものとは思えない。駒尺の場合は女性の連帯がフェミニスト的に肯定されており、その前提として女性の連帯を所与のものと捉えているふしがある。一方の角田は、身近なようで遠いものとして、遠いようで身近なものとして、というふうに、もはや所与のものとしては語れない時代になっていることを伝えている。私たちの今の感覚を代弁しているように読めるのは角田であり、それを可能にした一助が日常の文体なのだろうと思うのである。

このふたつの条件をミックスした例を挙げよう。あるフェミニズムのパレード参加のために、「原宿駅に御参集願います」と聞いたらゲンナリするかもしれないが、「原宿駅表参道口NEWDAYS前に集合ね」というメールをもらえば心はうきうきするに違いない。同じ伝達内容でも、文体が違うだけで、パレード内容の違いも自ずと明らかである。とにもかくも、あなたが後者だったら、実際の年齢や性別がどうであれ、あなたは女の子であり、L文学を存分に楽しめるはずである。