長くつづくもの

『荒野の七人』(1960)をひさしぶりに見る。内容は分かっているので、『七人の侍』とキャスト合わせをして楽しもうということになった。ユル・ブリンナー志村喬で、ホルスト・ブッフホルツは菊千代だから三船敏郎三船敏郎はブレイクしたのに、このドイツ人俳優はブレイクせずにさぞかし悔しかっただろうなあ、という具合に。

こうやってなんとか楽しもうと工夫したのだけれども、それでも、この映画、かつてほどおもしろく感じられない。オリジナルの『七人の侍』は楽しめるのにどうしてだろう、と思い、今度はおもしろくない理由を挙げながら見る。

理由のひとつはエピゴーネンだから。が、エピゴーネンであっても、というか、そうだからこそ楽しめるものがあるような気がする。それに、ちょっと視野を広げて、エピゴーネンでなくとも、オリジナルから着想を得て創作、という二次創作はありの時代になっている。エピゴーネンだからといって叩くのは時代遅れである。

では、勧善懲悪というナラティブが老けてしまったのだろうか。そうとも思えない。今のドラマや映画でも勧善懲悪を下敷きにしているのは多く、新キャストで始まった『必殺仕事人』は悪くない。世相を反映して、極悪非道の大企業を「懲らしめてやりなさい」という気持ちは強いはずだと思う。

それなら政治的配慮(いわゆるPC)が映画の楽しみを奪ったのか。『荒野の七人』は、白人(チャールズ・ブロンソンはハーフだけど一応「名誉白人」としてこちらのカテゴリーに入れておく)が略奪団のメキシコ人を始末するという話である。ところが、政治的に配慮して見ると、メキシコ人が悪に見えて白人は救世主となるという、二項対立的構成はオリエンタリズム。歴史的にみて、公民権運動がまだ全盛期を迎えていない1960年に公開された映画に、後知恵的に人種差別を指摘するのは簡単だが、娯楽作品を政治的に見ると面白くなくなってしまう、というのは、その作品の出来がもともと良くなかっただけのことである。そうでないと、差別だけを楽しんでいたことになり、それこそ狂信的で、私はそんな人間でないと思いたい。というわけで、PCは理由にならない。

で、最後に出てきたのが、私の映画に対する期待度が変わったのではないかということ。ここのところずっと、戦いのシーンには大なり小なり、爆破が使われている。一人の泥棒を捕まえるにも車は爆発するし、テロの犯人と交渉中であってもビルを爆破しましょうと現場主任がしつこく提案する時代である。爆破は戦いシーンの必須アイテムであり、それに慣れてしまって『荒野の七人』にも爆破を期待したのではないだろうか。『荒野の七人』では敵は36人。ひとつ爆弾を効果的に使えばすぐに終わる映画である。それなのに、長々と殺し合いのシーンが続くのが冗長に見えたのである。

延々と続く戦争や紛争や交渉や貧困問題などが報道には溢れている。「長くつづくもの」が私たちを支配しているような気がする。映画は「長くつづくもの」に対して爆破という方法を生み出し、戦いそのものの時間を縮めてこれまで描くことが出来なかったようなシーンを作り出していると思う。「長くつづくもの」に対する思考もあるはずである。なんだか、そこからおもしろい思想が生まれそうな予感がする。

というわけで、最近は、「再〜」とか「〜をめぐって」とか、「長くつづくもの」という意味合いをもつものに関する本に興味をもっている。