フェミニズム言説がL文学化する−(10)フェミニズム言説はどうL文学化したのか−

上野の美意識は横に置いておくにしても、彼女の「オシャベリ文体」は幅広い読者層に訴求力があった。ただ、彼女の本がベストセラーになる背景にフェミニズム側からの自身に対する反省があったのも確かで、今では、その反省を無視しては、フェミニズム言説を紡げなくなったのも事実である。

フェミニズムが自らを反省することになった要因のひとつは、フェミニズム・バッシングである。『バックラッシュ!』(2006)によると、男女共同(参画)基本計画が閣議決定された2000年12月から、男女共同参画基本計画(第2次)が閣議決定された2005年12月の間、おもに「ジェンダーフリー教育」を標的にしたバックラッシュが一部のメディアで熱を帯びた。(3)ジェンダーフリーのもとで、男女の違いをなくして中性人間を作ろうとしているだとか、文化の破壊者だ、というような批判が続出したのである。それに対して、フェミニズム側は冷静に対応し、まずはジェンダーフリーの語源を正し、その上でフェミニスト各々がジェンダーフリーを解釈し、バックラッシュ派の解釈がそのうちのひとつでしかないことを明らかにした。そのなかで、ジェンダーフリーという用語をあまりにも不用意に使ってきたことへの反省もまたなされた。ジェンダーフリー・バッシングは今もあるが、それに対して柔軟な対応ができる体制がこのとき作られたように思う。

このバッシング派との対峙は熱を帯びていたが、批判相手の意見が公にされたので、フェミニズムも一戦を交えるのに苦労はなかったように思う。ところが、ジェンダーフリー・バッシングの裏にくっ付いているかのような、もうひとつの「バッシング」に対しては、フェミニズムはまだ答えを出しあぐねている。すなわち、サイレント・マジョリティである一般の人たちによる批判である。

一般の人たちの批判は、フェミニストと名乗らないがフェミの感性をもっている文筆業者たちによって代弁されている。

まずは、作家高橋源一郎による代弁。小倉千加子『結婚の条件』(2003年)の書評のなかで行われた。書評の枠を超えて、フェミニズムが賞味期限切れのイデオロギーになってしまったのではないかとの論を展開している。

(いまの日本の(若い)女たち)は考える。「結婚」とは、なにより「ビジネス」なのだ。苦労して就職なんかしたって意味はない。優雅な専業主婦こそ、女の生きる道なのだ。女性の自立も男女雇用機会均等法も、必要ない。経済力のある男を見つけ、子育てし、なおかつ余裕があれば、最後に「自己実現」のためにちょっとした「価値ある仕事」をしたいのだ、と。
二十世紀を戦い続けたフェミニズムは、新しい世紀を迎えて、その解放の対象であったはずの女性たちから「あんた、もういらないわ」と宣告されたのである。(朝日新聞、03╱12╱14)

文芸評論家の斎藤美奈子は、フェミニズム的立場を生活の場で表すこと自体がタブーになっていると指摘する。フェミニズムは腫れ物扱いされてしまったのである。それもこれも、フェミニズム理念を表現する方法が適切でなかったからではないのか、と嘆く。

性差別やセクシュアル・ハラスメントに怒っている人は多数いるにもかかわらず、これについていったり書いたりすることは、いまやタブーに近い。「このヒステリーババア」という石礫がどこからともなく飛んでくるからだ。他方、頼みの綱のフェミニズムはといえば、学問的な精度を上げていく一方で、一般の生活者に届く言葉をかなり以前から失っている。その間にできた空白地帯にも、きっと届く言葉があるはずだと信じたい。(『物は言いよう』2004年、333)

社会学者の北田暁大は、こういった批判を総べるかたちで、フェミニズム言説の見直しを、辛らつではあるが、強く求めている。北田曰く、「左、右のイデオロギー対決の構造が消失した時代に、そうした正義への語り口、形式への違和が迫り出してくる。形式の倫理を問う、思想なき時代のあらたなメタ思想です。」こういう時代にあっては、フェミニズムは「学級委員長的価値」に映っていて、テレビでの「ぎゃあぎゃあわめくオバサン」というイメージが消しがたくあり、それを間違いとも言っておれまい。「語り口、形式こそが現代の政治的争点となっているわけですから。」(『論座』05/03)

一般の人たちによる批判をこのように代弁しているからといって、ではフェミニズムが心機一転、別のものに様変わりすればいい、と言っているわけではない。3人が指摘しているのは、今のフェミニズムイデオロギーとして魅力を失っており、その最大の原因が、語り口が旧態然としていること、つまり、内容さえよければどう表現してもいい、という教養主義的な隘路に入り込んでいるということである。この指摘を受けて、真摯に対応できるかどうか、それが今のフェミニズムの立ち位置ではなかろうか。

一部のフェミニズムは上のような指摘に敏感に反応している。その際、反省し変化するための参考としたのが、90年代後半から顕在化してきたL文学であろうと思う。L文学は、その内容として日常にあふれていること、作家山本文緒に言わせれば「これまで(女の子)が感じていたもの」を扱い、それを通して、リブ的感性(あるいはフェミ的感性)を、「オシャベリ文体」によってライトに表現する。強調するが、リブ的感性があっても歓迎、共感されているジャンルである。そうならば、フェミニズムもL文学にならっていいのではないか、という意識が出てきたとしてもおかしくない。それと同時に、L文学の洗礼を受けた人が、フェミニストになり、フェミニズム言説をL文学化していったのかもしれない。いずれにせよ、一部のフェミニズム言説が、隘路を抜け出して、読者に快楽を与える方向を向き、それをもって、作家・主人公・読者という女性の幸福な共同体を再構築し始めた、というのは確かなことである。