「三文オペラ」を見る

ブレヒトの音楽劇「三文オペラ」を見る。演出は宮本亜門

ポストモダンの意外な一面を発見した感じがする。原作者のブレヒトならば悪く受けとるだろうが、演出に関して個人的にはなるほどと思わせるものがあった。

と言っても演劇を見るのは、テレビで放送される演劇とシアターでの実演を足しても、これが何回目と数えられるくらいしかない。だから、たいそうなことは言えない。

演劇は退屈なものだとずっと思ってきた。ひとつにはテレビで放送される演劇の影響がある。テレビで放映されるのは古典が中心、だから、新劇かそれに近いものが多かった。このタイプの演劇は、出来事を再現する手法を使っているが、再現というやり方が、現実が舞台で再現できるはずがない、と思わせ、舞台をウソっぽくしてしまう。それで、集中できずに途中で挫折していた。それに、俳優が台詞を声を張り上げてわざと聞き取れないかのように言うものだから、音声が聞き取れなくなると、再現にとって一番大切な筋が分からなくなってしまうのもまた一因だった。

出来事の再現という手法を解体して、新しい方法で演劇を見せようとするのもまた退屈に思えた。声を張り上げずに、普段の日常会話のようにボソボソと話す演劇は、何をやっているのかさっぱり分からなかった。あるいは、再現というコンセプトが、実は俳優・台詞・舞台装置が別々のものであるにも拘わらず、それらが一体化してさも自然に見えるようにするものであるということから、それらの要素をバラバラに見せて、これが演劇の形式だと示す演劇もあったが、これも退屈で、また主宰者も退屈であることが分かっているので、上演中に何度もシアターの外に出ていいということを言っていた。このような実験的演劇では、演技はあまりウソっぽくなかった。ただ、今度は別の問題が生じて、演劇の背後に政治性が漂っているようで、その政治性に対して逡巡する気持ちが正直あった。政治的であることをどこか装っていた自分にやましさを感じていた私に対して、ナルシシズム的満足をくれるようで、それが返ってやましさを強く感じさせたからである。

三文オペラ」も実験的演劇の方に分類されると思う。舞台で日常ではありえないようなことをやることによって、私たちが当たり前だと思っている日常に違和感を起こさせる方法を使う。そうやって、私たちの批評精神を育てようとする。

一昨日見た「三文オペラ」もそうだった。ただそれだけなら、単なる教育劇に終わっていたと思う。宮本の「三文オペラ」が本領を発揮したのは最後の場面だった。

それまでは、実験的演劇でずっと進んできていた。観客をアジって、もっと現実を直視しろ、と俳優が言う場面も何回かあった。常套である。ところが、エンディングにいたって、演劇は奇妙な展開をみせるのである。

最後の場面は、盗賊一味のキャプテンである悪玉メッキーが首吊りの刑に処せられようとする瞬間に女王から恩赦を受け、さらに、貴族の称号まで与えられるというもの。悪の真の正体は何かということについて考えさせるようになっている。

この場面の演出がポストモダン的だったのである。おかげで、教育的な雰囲気が吹き飛んだ。それまで道化師をやっていた米良美一が女王となり、彼は真っ赤なバラのような衣装をつけて、誇らしげに恩赦を告げる。米良の身長が低いことを逆手にとり女装させたのだ。PC違反である。恩赦が与えられた瞬間、天井からは光るテープが何重にも降りてきて、舞台はきらきら光る。全ての俳優がみなサンリオのキティちゃんの面をつけて踊る。

これで演劇は、場面の筋や意図と演技が齟齬をきたし、統一感が失われてちぐはぐになった。しかし、俳優がそういうこと一切を承知した上で、つまり、私たちがやっているのはウソっぽいでしょう、と確信犯的にそのウソを演じるのである。ウソをウソと演じることほど、本当に見えるものはない。

つまり、エンディングは、私が抱える政治性に関する問題を、あっさりとポストモダンの演出で、解決してくれた。教育劇として伝えていたメッセージのウソっぽさを、「そうだよ、そんなのウソだよ」と本気で伝える。そうやって、政治的メッセージを否定し、どうしようもないポストモダンの堕落振りを見せる。このエンディングが私と重なった。私にとって本当はあれやこれやの政治性なんかどうでもよかったのかもしれないと思った。政治的であると装いたかっただけなのかもしれないと思った。身が落ちていることを自覚した。

政治性をブレヒトから剥ぎ取ることで、ブレヒトを生き返らせる演出だったと思う。