フェミニズム言説がL文学化する −(11)フェミニズム言説はどうL文学化したのか−

フェミニズム言説がほぼ完全にL文学化したのは斎藤美奈子によってである。そもそも、L文学という括りをつくったのが彼女だから当然の帰結だと思われるかもしれないが、そうなのである。

斎藤の前にL文学化した本の例があるのではないかという反論もあると思う。小倉千加子の『セックス神話解体新書』(1988年)『松田聖子論』(1989年)、上野千鶴子の『セクシィ・ギャルの大研究』(1982年)『スカートの下の劇場』(1989年)などである。

しかし、こういった本は、フェミニズムが確立して、その語り口が問題化される前に書かれている。

小倉の場合は、どちらかと言えば、リブの系譜に属すのではないかと思う(小倉はリブを経験している)。リブ本は、(4)に書いたとおり、読みやすいものが多い。それくらい、リブ運動家と読者との関係が蜜な状態にあって、書くことが同時に話しかけることになるような状況があったのだろうと推測する。

上野もリブの感性はもっている。が、それだけではなく、「女の子」としての感性ももっている。大塚英志サブカルチャー文学論』は、上野の心情の中に「女の子」の感性があることを江藤淳を援用して説明している。それによると、近代以前にあった女性の中の「母」は大人になることの証であり、家族を守り、家を機能させるという責任を担っていた。その成熟を拒否して若くありたい、「母」が抱える様々な苦労から解放されたい、そのような欲望が実現するかのように見させてくれたのが近代である。近代はそういう欲望に応えることができるいわば「白馬の王子」だったのである。大塚はそう説明し、上野が自らのうちにある「母」を自己破壊して、「若くあることを選択」したと書いている。つまり、彼女は「女の子」であることの可能性にかけたのである。だから、上野のフェミニズムはその「女の子」に輪郭を与えるものとしてある。

こう考えれば、『セクシィ・ギャルの大研究』、『スカートの下の劇場』はフェミニズム言説のL文学化の萌芽であり、上野の近代に対する夢の軌跡とも言うことができる。

斎藤の場合はちょっと事情が違う。彼女は小倉や上野が抱えていた問題系を生んだ時代の後に登場してきた。いろいろなフェミニズム言説が一応出揃ったところで、反省というひねりを効かせたメタ的視点を取り入れられる場に立ったということである。大雑把な言い方が許されるとすれば、先行するフェミニズムなしでは彼女の言説は存在しえない。

ウィキペディアにあるコラム「斎藤はいかにしてフェミ棚と出会ったか」を参考にすると、斎藤はリブ(70年代後半)とフェミニズム(80年代後半)の両方を経験している。が、最初はどちらに対しても全力投球というわけではなかった。本に関して言えば、リブ本に対しては、パッションが感じられて刺激的であるけど、理論がなくて飽き足らない。で、80年代にフェミ本に出会うも、もう興味は薄れていて、読む気がしない。

倦怠感はつのり、しかしながら一方ではフェミニズムの力衰えず。このギャップに耐えかねて、80年代後半から急遽読み始める。ところが期待して読んでみると、『セックス神話解体新書』を除けば、「党派的な言説ばかり。」つまり、フェミニズム内部で読みまわす、自家中毒に陥った言説が大半だったということだ。いつの間に権威になったの?斎藤はヒステリー的不満をもつ。それで、フェミニストにまかせてなんからんないわ、ということで、90年代前半から執筆活動に入ったのである。

執筆する際に注意したのが、読者をどう楽しませるか、ということであったろうと思う。先のコラムはおもしろいフェミ本推薦のための導きなのだが、そのコラムをこう結んでいる。「いかに正しいことが書いてあっても、おもしろくない本で勉強するのは苦痛ですからね。」これは、80年代に編集者として働いていたときの職業倫理で、本は読者に届いてなんぼのものであるということ。テキストの快楽化にいかに斎藤が忠実であるかを教えてくれる。

そして同時に大切なのは、面と向かってというか堂々と、フェミニズム言説の退屈さを批判していることである。心情的にはいかにフェミニストであっても、どこかでこういう禊をしないことには、読者に自分も旧態然としたフェミニストと思われるからであろう。政治家と一緒で、政治を語る者は、立ち位置をぶれさせてはならないのである。

こういった問題意識が、斎藤をフェミニズム言説とL文学の融合に向かわせたのだと思う。テキストの快楽化において先行するL文学的なものが、フェミニズム言説を変えるという編集者の勘が働いたと言える。

新たな段階に入ったおかげで、フェミニズム言説は武器をもつことができるようになった。テキストに毒をもたせる手法を開発したのである。これは見過ごすことができないポイントである。フェミニズムは男性がもつ権威や権力を批判、解体させることを目的のひとつとするが、それをまともにやるのではなく、斜めから切ってみる。つまり、毒で茶化して骨抜きにする。笑って、批判、解体である。そうやって、権威や権力の批判、解体は女性によって共有されていくこととなる。新しいかたちでの政治的営為である。

おもしろさを軸にフェミ論とも判別しがたいフェミ論を展開していく斎藤。そのおもしろさがとんがることもあれば、ちょっとしたことで折れてしんみりさせることもある。その度に読者は一喜一憂。カバーする内容は、女性ならではの関心事から狭義の意味の政治まで。読者を縦横に連れまわす。そしてときには、読者とじゃれあって遊ぶ、L感覚。やはり、彼女を嚆矢としてL文学化したフェミニズム言説が始まったと言っていいだろう。