フェミニズム言説がL文学化する−(9)フェミニズム言説はどうL文学化したのか−

フェミニズム言説の前駆快感化あるいは快楽化。この延長線上でベストセラーになったのが、上野千鶴子の『おひとりさまの老後』(2008年)である。

上野千鶴子は、常に自分に降りかかってくる問題について研究する。年月の経過とともに、関心の対象や考え方が変化するのはこういう事情があってのことである。そして還暦を迎えるにあたって考えざるを得なかったのが老後の過ごし方。ところが世間では、一人暮らしの女性が老後をどう生きていけば、というか、どう死んでいけばいいのか、ということは、あまり話題にされていない。たとえ話題にされたとしても、介護問題や老人性痴呆問題など、社会問題として解決しなければならない対象としてしか扱われていない。当事者の視点が欠けている、そう思ったのだろう、それで上野は自身の問題として老後の過ごし方を語る必要性を感じ、『おひとりさまの老後』を執筆することになった、というのが経緯かと思う。

といっても、老後の過ごし方という話題は、重要だけれどもインパクトに欠ける。当の高齢者でさえ、「私はまだ若いわ」という自己認識の勘違いで、関心がもてない分野である。時代を拓くフェミニストと呼ばれる上野にとっても、必要だけれどもイケていない分野である。どうすれば研究とそれに見合う成果を得ることができるだろうか、上野はひとしきり考えたに違いない。成果とは、とにかく本が幅広い読者に届くことである。関心を引くには、話題を魅力的にしなければならない。でも、そんな方法なんてあるのか。と、内容で勝負していればよかったフェミニズムがこれまで悩んだこともない問題にも上野は直面することになったのである。

そこで上野がとった戦略がテキストの快楽化である。まずはイメージ戦略を使った。自身を、世間で日陰の存在にさせられてきた多くの一人暮らし女性高齢者と同列に置いたうえで、その人たちをジャーナリズムが生んだ「おひとりさま」という呼称で呼ぶことにしたのである。そうすれば、「おひとりさま」という呼称が、日陰者という一人暮らし女性高齢者のイメージを駆逐し、代わってポジティブなイメージを作り出すことができる。

「おひとりさま」という呼称は、今はなきジャーナリスト岩下久美子が発案したものである。位置づけは、「自分ひとりの時間や生活を楽しむことができる『個』が確立した女性」というもので、目指すは、そういった「女性がひとりで旅行や食事をしても色眼鏡で見られない世の中」だそうだ。(朝日新聞2004╱7╱16)。「おひとりさま」にはこのような意味が付与されていて、それは普通に流通している。だったら、一人暮らし女性高齢者は、「おひとりさま」と呼ばれても悪い気持ちはしないだろう。なんだか、生き返ったような気がしないでもないのではと思う。加えて、これまでは無視され続けてきたのに、今やトレンドの中心にいるような気がしてくることもあるかもしれない。そうなれば、何かやりがいも出てきて、本を手に取ってみようという気持ちも起ころうというものだ。それもフェミ本をである。当事者以外の人にとっても、一人暮らし女性高齢者を見直す契機となるだろう。こうやって、イメージ転換は、当事者たちを明るい日向に誘い出す役割を果たしたのである。ジャーナリズムの力はすごい。

上野が次に試みたのが、会話文を多く取り入れるという手法である。いわゆるL文学の「オシャベリ文体」の取り込みである。ちなみに、他のフェミ本をパラパラとめくっていただければ分かると思うが、これまでは引用以外で会話が用いられることは極めて少なかった。ところが上野は、会話を積極的に本文に取り入れて、軽い文体を心がけたのである。軽い文体になると今度は軽口もたたけるようになる。例を挙げてみよう。

アメリカの住宅は大きい。広壮な敷地にアーリーアメリカン調の住宅。それらが互いに調和しながら建ちならぶ郊外の景色は、日本の住宅地にはない豊かさだ。
ニューヨーク州北部、コーネル大学のあるイサカは、庭先にリスがやってくる自然に恵まれた町である。そこに日本語教授法の大家として知られる60代のエレノア・ジョーダン先生が住んでいた。日本人の英語学習法の欠陥を知りつくし、日本人向けの英語の集中コースを開講していたジョーダン先生は、クラスの受講生全員を集めて自宅でパーティをやってくれた。いまから20年も前のことである。
家族連れで来ていたわたしのクラスメイトが(もちろん男性だ)、帰ってきてからこう言った。
「あんな大きな家にひとりで住んでるのか。さみしいよな」
わたしはプッツン来た。おおきなお世話だ。(42)

全体がこの調子である。そしてときには、会話文の括弧がはずされて、地の文になっている部分もある。さらには、体言止めが多用される。テンポがよくなって、読者も無理なく読む進むことができる。

そして最後に用いられるのが女の友情である。実はこの女の友情、フェミニズム史では不幸な扱いも受けてきている。一言でまとめれば、女の友情というが、内実は民族の違い、経済格差、未婚・既婚の違い、セクシュアリティなどによって利害対立が存在しており、友情という言葉はこれらの対立を隠蔽しているのではないか、というものである。こういった批判は、フェミニズムがとんがっていた80、90年代にはよく見かけたものだった。が、この批判を前にして、でも女の友情は気持ちいいじゃないですか、と再度見直し、評価を求めたのがL文学だったというのを思い出そう。上野もこういうこと一切について百も承知であったろう。そのうえで、女の友情は確かに気持ちいい。男性がいないところで、チャックルしながら事を運べるし。なんだかいらぬ邪魔が入らないずにいい感じ。と自分の気持ちに素直になったのだろう。その気持ちが、女の友情を本の要の部分で評価することにつながり、それが乙女の心をも潤したのだと思う。

『おひとりさまの老後』は、このような読者の快楽への配慮から生まれた本である。その配慮がL文学の流れを全面的に承認するかたちでなされている。フェミニズム言説が完全にL文学化するまではあと一歩である。