フェミニズム言説がL文学化する−(8)フェミニズム言説はどうL文学化したのか−

いったん、女の友情や同性愛的脱性器的快楽といった女の子の感性が出てくると、それがいくらわずかだったとしても、常にアンテナをはっているフェミニストは敏感に反応する。そのひとりが小倉千加子である。手元にないので、正確かどうか全く自信がないのだが、彼女が2001年に『セクシュアリティの心理学』を書いたときには言及さえなかったのに、2005年に上梓した『シュレーディンガーの猫』では、同性愛的脱性器的快楽に大きな関心を示している。もっとも、同書では同義語の「前駆快感」を使っている。

さて、小倉が前駆快感を力説したのは、同書でのL文学作家山本文緒との対談。山本は小倉が講師をつとめた早稲田大学の社会人講座に金を払わない「モグリ学生」(204)として入り込んでいたらしい。金を払わなかったというのは、講座にあまり期待をしていなかったのだろう。ところが、彼女は思わずこの言葉を知って大変な衝撃を受けた。それは例えて言えば、ヘレン・ケラーなみの「ウォーター!」(206)理由は「これまで自分が感じていたことに言葉を与えられた」(206)からであるという。少し興奮気味であるが、ポイントは、「これまで自分が感じていたこと」というくだり。そう、日常ではごくありふれたことを、これまでフェミニストは無視・軽視していたが、ようやくそれを取り上げるようになり、彼女は感激したのである。

ここでふたりの会話を再現してみよう。(206−07)

小倉:これは、精神分析の用語なんです。「前駆快感」というのは、人生の始まりの時期から体験されて、人生が続く限り持続する快感で、性器的ではなく、性別もない快感です。具体的には、擽ったり、撫でたり、吸ったり、舐めたり、微笑んだり、冗談を言ったり、というようなことです。
山本:お母さんと赤ちゃん、子ども同士、女同士でも、男女間の恋愛でも、年取った人達にもあり得るんですよね。
小倉:そうです。遊び、ふざけ、の快楽です。
山本:じゃれあい、なんかがそうですね。・・・(略)
小倉:・・・(略)私はむしろ、前駆快感の方を、普遍的でベーシックな、生涯続くかなり高等な快感だと考えているんです。・・・(略)

「擽ったり、撫でたり、吸ったり、舐めたり、微笑んだり、冗談を言ったり」する。「遊び、ふざけ、の快楽。」「じゃれあい。」これまでフェミニスト言説でこういった行為が、語るに値するものとして、肯定的に捉えられたことはあっただろうか。批評の対象外として無視されるか、あるいは、非生産的だとして、低く見られていたのではなかったか。

ところが、ここにきて、180度の転換が起きている。存在し「感じていた」と思えるものに、名が与えられ、確実に存在が保証されることとなったのだ。つまり、「女子ども」の文化が評価されたということになる。

一度このような転換が起きるとフェミニズム言説はその色合いも変えていく。批評対象に前駆快感を取り上げるだけではない。それが批評対象になる、それも高い評価の対象となるならば、それを批評の言葉に取り込んでもいいのではないか、という意識が出てくるのである。つまり、批評文が前駆快感的であってもいいのではないかと。