キャロル・ギリガンはカントと出会っていた

キャロル・ギリガンは20世紀後半に女性学の分野で活躍したアメリカの発達心理学者である。彼女を著名にしたのは、1982年に発表された『もうひとつの声』である。ここで彼女は、後に「ケアの倫理」と呼ばれることになる、女性がもつとされる特徴を述べている。まとめてみれば、女性は他人への配慮、他人との関係性、他人への責任等の道徳観のもとで思考、行動しているのではないか、ということである。そしてこれら思考、行動は、客観・具体的にこういうものだと断定することは出来ない。なぜなら、それらは他人依存的であるので、文脈により変化するものだからである。

ただ、これだけのことを言って著名になったのかと私は驚きを禁じ得ないが、女性学が隆盛していた1980年代、誰もが思っていても口に出せなかったことを言ったというその勇気が効いたのだろうと思う。振り返ってみれば、当時は、女性性というものが男性によって女性を抑圧するために作られた装置であるという意見が支配的で、女性性というものを女性が持っているとする意見はどちらかと言えば生物学的本質主義として軽視されがちであった。そんなとき、実証研究から女性は女性性、それもケアの倫理をもっているのである、と堂々と議論を開陳したのがギリガンなのである。しかも、このケアの倫理は社会のなかでよく見られる女性の思考や行動とも一致するものでもあった。いわば、現状を肯定するものでもあり、ということは、女性学が女性を抑圧する社会を肯定するものとなるのではないか、となり、フェミニズム界は騒然となったのである。と、私は想像する。

事実、ケアの倫理に対しては多くの賛否両論が寄せられた。詳細は省いて簡単にまとめてみる。賛同派は、ギリガンのケアの倫理をさらに発展させて、「ケアの倫理学」なる分野を作り出し、ケアの倫理が今の荒廃、硬直した社会を繕っていくのだと強調した。一方、批判派は、ギリガンの実証研究の手続きの不備を指摘し、彼女の結論には納得しかねるとの態度をとる。例えば、女性の声というが、その声は社会・歴史的・男女関係等により決定されており、時間と空間が変化すれば、声そのものも変わるものだ、なのにその声を女性のもつ声として普遍化しようとするのはナンセンスである、という具合である。

私自身の立場としては、女性はケアの倫理をもっているかもしれないし、もっていないかもしれない、と思っている。つまり、その可能性は完全には否定出来ないと思う。ただ、アカデミアの様々な理論を駆使してそれを机上で肯定・否定するということには与しない(例えば、否定派、山根純佳の『なぜ女性はケア労働をするのか』。)こういう議論は、往々にして、自分の現在の実感を無視している。確かに「いまここ」にあるものなのだが証明が出来ないために無視している。が、実感を無視して意見を言うと、自分の議論ではなくなる。「私」がいない空疎な議論となる。私はこういう机上の空論が大嫌いなのだ。で、なぜこういうことが生じるかというと、実感を非科学的なものとして排除しないことには男性中心のアカデミアの敷居をまたぐことは出来ないし、ましてや生き残ることも出来ないからである。

話が逸れてしまったが、ケアの倫理は女性学に衝撃を与えたという議論に戻ろう。ケアの倫理への賛否両論については、私は数冊本を読んだだけなので自信をもって言えないのだが、この賛否両論はどうも偏っている気がするのである。上に書いたように、賛同派はケアの倫理を発展させる方向性をもち、否定派はポスト構造主義的理論でケアの倫理の綻びを探す方向性をもっている。いわば、賛成、反対という極めてプリミティブな反応しかないようなのだ。ケアの倫理から始めてべつの問題系に接続し、女性が抱える問題をより多角的に考えてみようとする議論がないように思えるのである。

悶々とそう考えていたときに、たまたま中島義道の『純粋異性批判』を読んだ。どういう本かというと、「男には決して理解できない女の論理は、一体どこから生まれるのか?カントに代わって女という不可解を徹底解剖する、大胆不敵な女性論にして最良のカント入門書!」(帯より)である。で、この本の中で、著者の中島はギリガンと同じような状況を使って議論を展開しているのである。

ギリガンも中島も10代の男女の子どもがある状況でどう反応するかを見ようとする。

*中島の場合
10歳の男児に一人の正直な男の話を聞かせるとしよう。国王とその手下たちが、(アン・ブリンのように)もはや妃が邪魔になったから不貞の罪を被せて処刑しようと企み、彼に仲間に入れば利得と官位を約束するが、入らなければ自由と相続権を剥奪し生命さえも奪うと脅かし、彼の家族が屈服を懇願しているとも話す。(194項)

*ギリガンの場合
ハインツという男がいた。この男の妻は今重病で、それを直すには高価な薬を必要とする。が、ハインツはその薬を買うだけのお金をもっていない。薬の値段を下げてくれと薬屋に交渉するも、薬屋は頑と首を縦に振らない。ハインツは妻を救うために薬を盗むべきだろうか?

いうまでもなく、中島はカント倫理学のなかでこの仮説を使い、ギリガンはケアの倫理を説明するためにこの仮説を使っている。

が、二人が想定する子どもの反応は全く同じなのである。中島はこう言う。男「がその誘惑に動ぜずにきっぱり偽証を拒否するとき、これを聞いた少年は心から感嘆し、自分もこうなりたいと思うに違いない」(194)。中島が言わんとすることは、男は真理や自分の信念に誠実であることを善とする、ということである。ギリガンはこう説明する。少年の答えは明快で、ハインツは薬を盗むべきだと考える。理由として少年があげるのは、人間の命はお金よりも価値があるからである。もしハインツが薬を盗まなければ妻は死んでしまう、ということである。

二人の論者に共通するのは、男は自分の実利には無関係に、真理に誠実に行動するということである。それが自分にどんな結果をもたらそうともである。

少女の場合に対しても同じ反応を想定している。ギリガンが説明するには、少女は薬を盗むべきではないと考える。盗むという方法以外に他の方法があるんじゃないかと思う。例えば、借金したりとか。でもハインツは薬を盗むべきじゃない。だからといって、妻を死なせてもいけない。中島は「10歳の女児だったらどうであろうか」(195)とだけしか書いていないが、本を読む限りでは、中島が想定している反応は、少女は国王とその手下たちとも家族ともまず話し合って、他に方法がないかを考えるべきだと思う。もし、私が同意したら家族が悲しむし、家族の身にも危険が及ぶかもしれないし、国王だって妃とは仲が良かった時期もあったはず、そんな残酷なことをすべきではない。ということだろうと思う。

どうだろうか?女は、他人との関係性を重要視する、ケアの倫理をもっているという意見の一致がここにあるのではないだろうか。

これらの仮説から導き出せることは、ある局面で男女が違う反応を見せるということである。男は、真理への誠実性、そしてそれは自分の内なる誠実性ともつながるもの、を重要視する。一方、女は他人との関係性を重要視し、それはときには自分に実利がある場合もあれば、自分を犠牲にすることもある。

二つの反応を優劣関係に置くのはこの際、各人の自由としよう。が、確実に言えるのは、ギリガンの議論はカントの道徳論と地続きだったということである。となれば、ケアの倫理が発表されたとき、それに賛否を示すことよりは、ギリガンが想定していたであろう女がもたない思考、行動原理を、どうして女はそれをもたないのか、と問うことではなかっただろうか。

私はこの問題は精神分析によってしか理解できないだろうと思うが、まだ考えている最中なので、今ここで述べることはできない。しかし、自戒を込めて言うのだが、女性学論者がこの問題に取り組んで来なかったことの帰結が、STAP細胞の小保方晴子氏でなくてなんだろうか?博士論文におけるコピペ、引用元の記載漏れ等は彼女自身の性格によるものだろうか?女性一般が抱える問題ではないのだろうか?いまのところ、女性学論者はマスコミの「女」の使い方の検証だとか、あるいは研究者としての勉強不足などと、問題の周辺をグルグルまわっているだけで、本当に検討しなければいけないところには触れたがらない。