熟議や討議は政治手法としてどうなのか?

東浩紀の「一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル」と岡野八代の「フェミニズム政治学 ケアの倫理をグローバル社会へ」を同時に読んでいる。それで悩んでいる。両者とも、社会をドラスティックに変えようというところでは一致しているのだが、その政治的手法がどうも正反対のようなのである。

東はルソーの提案する一般意志をベースにして政治の方向性を決定していこうと言う。一般意志とは、私たち一般の人々がもつ意思や欲望や要求などを集合知として集計した結果得られるものである。ここで集合知が何であるかが重要となってくる。集合知の意味を知っておかないと、東の提案は単なる衆愚政治となってしまうからだ。東が言うには、集合知とは、「みんなで集まって考えると、ひとりでは生み出せなかったようなうまい回答が出てくることがしばしばある」(30)が、それを指すという。こういうと、世界中の人々が集まるなんて不可能じゃないか、という疑問が出てきても当然だ。それで、東はネット社会論から集合知をもう少し精緻に説明する、精緻といっても結構抽象的なのだが。とにかく、その説明はこうだ。「集合知は、分散し独立した判断を下す多様な個人の意見を、適切なメカニズムで集約することで得られるものである。集合知の手法の擁護者によれば、特定の条件さえ満たすならば、専門的な判断が要求される問題に関しても、招集の専門家よりも多数のアマチュアのほうが原理的に正しい判断を下すことができるらしい。」(30)そして、この「適切なメカニズム」が例えば、検索エンジンとしては精度が高いと言われるグーグルなのである。

つまり、集合知を得られるインフラが整いつつあるからこそ、現状打破の意味もこめて、一般意志を政治の核に置いてみるのもいいのではないか、というのが東の意見である。

ということは、政治をする上でこれまで当然視されてきた熟議や討議は一般意志(集合知)の下位に置かれることになる。いや、東はもっと過激に、熟議や討議は不必要なのだと言っている。

東の意見は突拍子もないようなことのように聞こえるが、実はそうではない。例えば、彼の言う集合知らしきものは、日本のほとんどの大学が採用している。そう、授業評価アンケートだ。優秀であるとか真面目であるとか、そういう理由で、特定の学生に授業を評価してもらうよりも、授業を受けている学生全員に評価アンケートをしてもらい、その集合知を授業の質を上げるにあたって参考にする方が理に適っていると大学は踏んでいるのだ。

このような例を考えると、熟議や討議なしの、一般意志に基づく政治があってもおかしくない。いや、おかしいどころか、時代の流れに乗った当然の手法なのかもしれない、と思うのである。

岡野もまた、野心的な意見を提案している。ケアの倫理をグローバル社会の倫理としようというのである。ケアの倫理とは、ケアが必要な人のニーズに対して責任を持つことを言う。それから敷衍して、自分だけではなく他者への配慮を怠らないこと、その配慮はある理念のもとに固定しているものではなく、関係性や状況に応じて変わってくるものであること等を意味する。文脈や人が誰であるかで配慮のやり方が変化するのだから、例えば同じ介護の現場でも、今日こう言ったとしても、明日は違うことを言うことがありうる。悪い表現だが、意見がコロコロと変わって、一貫性がないということもあるうるのである。というか、一貫性がないのがケアの倫理なのである。

だからであろう、ケアの倫理はこれまで政治の領域からは排除されてきた。具体的に言えば、ケアの倫理のもと、他者に依存する者は、あるいは依存に関わる活動に従事する者は、正当な政治的主体と見なされてこなかった。既存の政治を行う者にとっては当然だろう。他者に依存し、自分の、個としての揺るぎない意見や意思を持たぬものがどうして政治を行うことができるだろうか。他者に依存するが故にその他者に左右される者が、どうして万人のための正義の政治をすることができようか。

岡野はこの政治観に真っ向から対立する。果たして、既存の政治はなにか欠落しているのではないか、と岡野は問う。そしてその欠落しているものがケアの倫理というわけである。ところがケアの倫理は一貫性がないため分が悪い。それで脇をかためなければならない。アーレントの自由の概念を岡野が参照するのもこのような事情による。岡野はこう書いている。長いが引用しよう。

「ことばと言論は、個人の意思ではコントロールしきれない関係性の網の目の中でこそ独自の意味が与えられる。そのため、いかなる者であっても、自分のことばや言論は、自らの意思によって支配しきれないために、あまりにも脆く、無制御である。それだけではなく、なにか確実なものを達成することを意図する、目的をもった主体からすれば、あまりにも他者依存的であり、偶発的な要素が強い。ある者が発したことばの意味は、彼女のことばから他者が受け取る意味と、必ず同じではない。だが、そうした偶発的な要素を否定することは、わたしたちの言論活動によって生み出される自由な空間を破壊する。なぜなら、ことばの意味が文脈依存的であるかぎり、言ったことと聞かれることのあいだい不可避的に生じるこのズレこそが、関係性の網の目から湧き上がることばのちからの効果でもあるからだ。」(83−84)

そしてアーレントをもちだす。

アーレントにとって自由であることとは、ひとつの意思や動機を越えた、したがって、新しく、予測不可能ななにものかがもたらされる空間を享受できることである。」(84)

既存の政治議論は、自由な意思を持った主体によってなされなければならない。自由とは、なにかからの自由でもあり、なにかへの自由でもある。そう、自律した主体だ。政治領域における熟議や討議はこのような主体によって担われなければならないという考え方があった。が、岡野はそうではない、と言う。自由でなくとも、依存していても、状況に縛られていても、そのような人々の声と衝突することで、政治議論の場に自由がもたらされるのだと。だから、排除された者を政治領域に迎え入れることこそが、停滞している政治の現状打破につながるのだし、弱肉強食のグローバル社会も変えられるのであると。

ここで整理しよう。東も岡野も、現在の社会の変革に関心をもっていて、政治的手法のオールタナティブを提案している。東は一般意志を、岡野はケアの倫理をである。

だが、同じような議論のやり方のように見えて、二人は決定的に違っている。東は政治には熟議や討議は不必要だという立場である。一方、岡野は、政治を行うにあたって、これまで排除されてきた者を迎え入れることで、熟議や討議に自由をもたらし政治を活性化しようという立場なのである。熟議や討議は不要。より良い熟議や討議が必要。

果たして、どちらがいいのだろうか。ただ言えるのは、岡野の議論には矛盾があるということである。既存の政治を組み替えると言いながら、既存の政治的手法そのものに対しては何の疑問ももっていないからである。岡野は既存の政治から外に出ていない。

ケアの倫理について考え始めている私にとって、その点において岡野の議論には満足できない。