『イン ザ・ミソスープ』

「落伍者のための名作フェア」と本の帯に書いてある。「落伍者」という響きに釣られてしまった。

落伍者というのは、何か固い基盤から落ちこぼれてしまった者という印象がある。そして、落ちこぼれ方にも2つあって、自分に非がある場合とそうでない場合がある気がする。

自分に非がある場合、悪いことをして転落してしまったとか、なんとなくやり過ごして生活していたら、いつの間にか落ちてしまっていたとかが想定される。前者の場合は分かりやすく、転落の原因が明らかなだけに、落伍状態から這い上がれる可能性が残されている。それと比較すると、後者はたちが悪い。というのも、「自分は落ちている」と気がつくのが遅い分、取り返しがつかないことがあるからである。周囲の人も、「あの人、ちゃんと生活してるじゃないですか」と言って、落伍状態に気がつかないので、自分もつい落伍状態を意識的にも無意識的にも放置してしまう。そうやって、長きにわたって熟成された落伍状態なので、それはどこに原因を求めていいかも分からないくらい錯綜し、気がついたときは、這い上がろうという意志どころか、生きようという気さえ起こらなくなる。あるのは熟成された分臭くなった自分の落伍状態の匂いだけということになる。

その一方で、自分には非がないにも拘わらず落ちることがある。固い基盤がひとりでに壊れてしまって、落ちていくしかすべがない場合である。『ミソスープ』は、後者の方の落伍者を描いているように思う。

村上龍は、饒舌に、いかに共同体という支えが崩壊し、その過程で人が迷子になり、生きる実感を喪失してしまったかを書く。このリアリティのなさを体現するのが日本に観光という名目でやってきた米国人である。だから、米国人は、リアリティを求めて格闘するという役割が与えられている。その格闘の表現として村上が選んだのが自傷である。といっても、米国人に自分の身体を切らせるのではない。殺人を犯させることによって自分を切らせるのである。だが、いくら切ってもリアリティが掴めないものだから、彼はとてつもない殺戮者とならなければいけない。現実感の喪失がこのように屈折したかたちで表現されたため、「読売新聞連載中より大反響を引き起こした問題作」(カバーより)となったのである。

主人公ケンジはこの米国人に夜の新宿歌舞伎町を案内する役として登場し、彼が行う殺戮シーンを目の当たりにする。ケンジが、人を次々に殺していく米国人を見なければならないのは、自分も殺されるかもしれないという状況に置かれることによって、何をすべきかを考える機会を得るためだ。それは、このリアリティのない現実でどう生きるかという村上の問題意識の表出でもある。そうやって、窮地に追い込まれて、考え抜いて出てきたのが、「意志をもて」という前向きな姿勢だった。これで、ケンジは自己を保つことができ、それと同時に、米国人が入り込んでしまっている暗闇に落ちることから免れる。

こう考えると、『ミソスープ』は、硬い基盤(村上の言葉で言えば共同体)の崩壊に向き合う若者のサバイバル経験を描いていると言える。だから、内容は乾いた殺戮シーンの凄絶さがあって暗いのだけども、なにかしら前向きなメッセージを与えるような明るさもあるように思う。

このような明るさを後押しするものとして第3部がある。この最後のパートでは、共同体の崩壊と格闘する米国人の心の状態がじつに詳細に書かれている。村上はこの格闘を強調することで、私たちはどうしようもない時代に突入したが、格闘という手段は残されていて、残念にも米国人はその先の明かりが見えないが、幸いにもケンジには見えた、と伝えるのである。それが読者を救う。

が、現在は、この米国人やケンジのような落伍者ではなく、もうひとつの精神的に落伍状態になっている人が増えているという実感を私はもつ。先の展望がみえず、やりたいこともなく、ただ動物的にだらだら生きている私たちのことである。ゾンビと言えば分かるだろうか。ゾンビは人の脳をただ食べたいだけで、他には何もしたいことがない。できることといったら、仲間を増やすだけである。

本書が書かれた10年前(初版は1997年)はまだ先が見通せた時代だったのだと思う。でも、村上も、自分の楽観に気づいたんだろうな。数年後には、『13歳のハローワーク』(2003)という非現実的ではあっても希望だけはあふれた本を書いて、この社会では子どもにしか希望を託せないことを悟っている。年齢の設定を、神戸・須磨区の事件加害者の年齢14歳から、1歳しか下げていないところが『ミソ』だが。