フェミニズムがL文学化する−(12)まとめ−

フェミニズム言説がL文学化する現象は、フェミニズムが再生するための努力の表れだった。だからといって、L文学化しようと呪文のように唱えればそれでいいというわけではない。実際、L文学化するには、書き手の大変な努力が必要とされる。

と思っていたが、大塚英志更新期の文学』を読んでいたら、文体上の芸はどうもそこまで難しくないということが分かった。まず、文体というのは憑依する。橋本治が『桃尻娘』を書いたとき参考にしたのが、当時の女子高生の語り口文体。少女誌の投書欄その他の語彙から再構成したらしい。だから、「おしゃべり文体」を使いたいと思えば、例えば斎藤美奈子の本を読み、かつ、彼女の文章の形式をそのままにして違う内容を埋め込むという作業を何度も繰り返しトレーニングすれば身についていくはずだ。

大塚の議論を敷衍すると、入力した文章の単語や語尾などを、「おしゃべり文体」辞書(「オシャベリ文体」をいろいろな角度から分析して辞書化したもの)にしたがって書き直していくことで、「おしゃべり文体」を操ることが可能になり、さらには、「自動生成ソフト的なプログラム」によっても操作ができる、というふうに文体を技術のレベルでとらえることもできる。そうやって、作者固有の文体と私たちが呼ぶときの文体の固有性を脱神秘化することが可能となる。

脱神秘化とフェミニズムは親和性が高い。フェミニズムが、「暗黒大陸」に模せられる女性の神秘性をはがして、それが女性を支配するための一種の技術だったことを明らかにしたのは、そもそも「暗黒大陸」が女性にとって窮屈だったからである。技術だと分かったらそれを使いやすいように変えていけば楽になれる。

同じことが文体にも言えて、文体の固有性とかその良し悪しとかが取沙汰されるとなかなか書く気が起こらない。男性の文体が作りあげてきた規範に準じていないと、評価されないし、読まれることさえないし、なんだか見張られている感じもするからだ。書いたとしても「女こども」の文体とバカにされ、徴がついた言説として扱われる。でも、フェミニズムが脱神秘化という手法を広めてくれたおかげで、文体は固有性云々の問題ではなくて単なる技術の問題だと分かった。こうなれば、書くことの敷居が低くなって、書こうという気持ちが湧いてくるし、好きな文体を使うことができる。そして、各々のエリアで技術を磨いていくことだってできる。その過程で、多くの女性の書き手が日常の「オシャベリ文体」の新鮮さを発見したのである。

文体は技術という考え方に支えられて、フェミニズム言説はL文学化したと言ってもいい。ところがというか、当然のことなのだけれども、その結果、フェミニズム言説と女性文学の境界がかぎりなく近くなっている。フェミ感性で書かれた批評がまるで文学の短編作品のように読めたり、その一方で、女性文学がフェミ感性無しでは読めなくなってきているという現象である。こういった傾向を後押しするように、ついにフェミニズム文学が日本にも登場した。小倉千加子の小説『ナイトメア』(2007年)。

つまり、フェミニズムの全体化が女性の言説に起きている。別の角度から見れば、女性の共同体の顕在化。これは例えて言えば、母権制の勃興のような気がしてならない。

母権制と言えばバッハオーフェン。バッハオーフェンと言えば母権制。それくらい彼の母権制論は有名だが、私は薄い小冊子しか読んでいない。でも、大体のことはそれに書かれていて、一言で言えば、母権制は女性が上位にいる社会、である。これから派生的なことが連想でき、諸々の社会制度で女性が上位になると言うことができる。政治を行い、経済の舵取りもする。そしてこういった行為を支える原理が、女性が尊ぶ理想(平和、平等、自由、愛、幸福など)ということになる。が、バッハオーフェンは、こういう社会はかつて存在したことがないと言っていて、母権制が、男性上位である社会で生まれる願望のビジョンであることを示唆している。要はファンタジーだってことである。

ところが、この母権制フェミニズム言説のL文学化によって形成された女性の共同体と似てはいないだろうか。女性がもつ理想のもと男性社会が槍玉に上がって、それで意気軒昂としている集団として相通じるものがあるような気がするのだ。この集団内では、ときとして、男女の権力関係が逆転し、女性が上位にくることが想像されるし、社会秩序が女性の理想によって組み変えられることもある。男性社会では劣位に置かれている「女子ども」ものが評価されることもしばしばだ。もちろん、実際、男性社会で被った被害や価値観の衝突などについてみんなで泣き、悩み、解決を模索する場でもある。男性社会で生まれる女性特有の「生きがたさ」の実感が共有されるのは言うまでもない。

このように、女性の共同体が母権化されるということは、女性が力を得ようという意思の具現化である。これまで、男性社会にまっすぐに対峙し性差別からの解放を訴えてきて、男性社会で劣位にいる女性を鼓舞してきて、それでうまく事を運ぶことが出来なかったフェミニズムが、いったん対峙を一時中断して自らの陣地を確保し、力を蓄えようとしていることの表れである。裏から見れば、それくらい、フェミニズムが疲弊しているということだ。

疲弊しているということは、休み、力を蓄える間、誰かに肩をかしてもらうことになるし、また、人を育てなおすことにもなる。共同体の内部では、これはうまく機能する。

ところが、フェミニズムがそうやって共有意識を作り、高めているとき、外部との関係はどうなるのだろうか。今のところ、共同体内部の声は外部にある男性社会に聞こえている。それが、L系文学者やフェミニストの評価というかたちを取る。しかし、評価されるという行為は両義的で、男性社会を変えることにもなるかもしれないし、新奇な要素を男性社会に持ち込むことで返って活性化させるかもしれない。私が問題としたいのは後者のような場合で、女性の共同体に軸足を置く限り、男性社会に間接的にしか関与できなくなって、社会システムが実質的に男性によって動かされることをほぼ黙認することになりはしないかということである。

実際、先に挙げた斎藤美奈子の言説はすでに力を失い始めている。男性社会が自らの権威の失墜に取り組んでいるとき、そのすでになくなりつつある権威を茶化す彼女の言説は、女性の共同体の靱帯を強固にすると同時に、返って権威の復興に力をかすものともなっているという、どっちつかずの宙を浮いている状態で、かつてほどの力を持ちえていないのである。

女性の共同体を否定しているのではない。女性の共同体は今、疲弊したフェミニズムにとって不可欠であるし、そのことは同時に、若い女性たちの感性の受け皿になっていることをも意味する。だから、フェミニズム言説のL文学化は否定されるべきではない。しかし、それが男性社会をそのまま温存、強化することにつながる可能性がある。この二項対立は過去から現在まで連綿としてあるもののように見えるがそうではない。フェミニズム言説がL文学化するのに伴い新たに生じた、男女の溝をどう再構築するのか、という複雑な問題なのである。

私たちの生き方は、男女がどう関わっていくのかという観点から語られることが多くなってきた。恋愛、結婚、離婚は言うに及ばず、仕事についても教育についてもコミュニケーションのとり方についてもファッションについても。L文学化したフェミニズム言説が、これまでの男女の関わり方を失効させてしまったからであるが、新たにできたこの男女差をどう埋めるかということではなく、差があることを認識したうえで、それでもその差という間で男女がせめぎ合いをしていくことが、ときには言い争いをし取っ組み合いのけんかをしていくことが、私たちがやらなければならないことになっていくのだと思う。