黒色綺譚カナリア派

赤澤ムックは劇団「黒色綺譚カナリア派」の主宰者であり、劇作家・演出家・女優でもある。なぜだかわからないが名前を知っていたので、彼女作・演出の演劇を見に行った。「義弟の井戸」という。

劇は古典的な悲恋もの。女は山の手のお嬢さん、男が下町の職人で、身分違いの恋をする。恋の障害としてはこれだけで十分だと思うけど、もうひとつ障害があって、男がお嬢さんのお兄さんを小さいころ随分いじめたらしく、お兄さんが二人の恋愛をどうしても承諾しない。自分を犬畜生のようにいじめた奴と妹がうまくいくなんて許せないし、あんな奴を好きになった妹も許せない、というもの。お嬢さんと一緒になるため必死に許しを乞う男とそれを冷たくあしらうお兄さん。劇はふたりの駆け引きに焦点をあてる。

こういう展開になってくると、多分お嬢さんと男は結ばれないだろうなということが途中でわかる。男がお百度参りのように許しを乞いにくるものだから、お嬢さんと結ばれるという目的が手段化して、男とお兄さんの駆け引きそのものが息詰まるくらい延々と続き、全てが不毛に終わるだろうことが端々に見てとれるからだ。そして実際、お嬢さんと男が結ばれるかどうかはわからずじまいの状態で劇は終わる。

よくある物語だと思う。で、劇はこのわかりきった物語をきっちりやることで、観客に対して逆に、どうして分かりきった劇を見るの?と問う仕掛けになっている。わかりきった物語に並列して、関係のない人物を登場させて、意味をなさない台詞をぺらぺら話させたり、意味をなさない行動をとらせたりする。その効果で、わかりきった物語であるにもかかわらず、細部がどうなっているのかさっぱりわからないようになる。細部がわからなくなると本筋の方もぼんやりしてきて、やがて本筋も見失うことになる。結局、ふたりは結ばれないんだよね、と確認しながらでないと観客はおいておかれる。ほうら、陳腐なものでもこうするとわからなくなってくるでしょう、と言わんばかりである。わかっていたものがわからなくなる。いわゆる不条理劇である。

不条理劇は、最初のころは人間が生きていくうえでの息苦しさや閉塞感などの不条理をかたちにしたということで画期的だったのかもしれないが、いまさら、不条理を語られてもねえ、という気持ちになる。不条理劇よりも現実の方が不条理で、劇にわざわざ不条理を教えてもらわなくても結構だからである。

では、不条理劇はどうしてこう長く上演され続けるのか。

それは、不条理劇が長く上演され続けたことで、不条理劇の手法が過剰になり、その手法そのものが一人歩きをしたからである。わかりきった物語に投入される、意味のない言葉や所作や舞台装置。これら両者は弁証法的に働きかけ合うものだったのだが、後者が突出する。そして、わかりきった物語が背景にあるものだから、その背景に対応するように、この突出した意味不明のものを解明したいという気持ちがいつのまにか観客に芽生える。その観客の意味の病を逆手にとって、演劇がますます不条理に走り、いつのまにか、多くの不条理劇がいまだ上演されるということになったのである。観客の謎解き志向が不条理劇のネタだということである。

このような観客の謎解き志向は自然に生まれたわけではない。実は親玉がいて、それが村上春樹である。

村上春樹はわかりきった物語のあちこちにわからないことを配置する。読者は、これは何を意味するのか、と物語の筋に照らし合わせて考える。が、多分答えはでない。答えがでないように不条理なものをいれるのだから当然の結果である。そうやって村上ワールドはできあがり、読者はそれにのめり込む。近代における意味の病を操る村上ワールドは、だからポストモダン文学と呼ぶにふさわしい。

赤澤ムックはブログの写真を見る限りでは若い方のようである。多分、直接的にしろ、間接的にしろ、村上ワールドに触れているはずである。